厚沢部文化遺産調査プロジェクト

北海道厚沢部町の文化遺産や歴史、自然について紹介します。

厚沢部のアイヌ語地名解

桜鳥説 「あっさぶ」の語源は、「ハチャム・ベツ=桜鳥・川」と言われています(永田1892)。町史のタイトルが「桜鳥」なのも町名の語源に由来します。最初に「桜鳥」説を唱えたのは教育者として知られる永田方正という人物です。永田は著者『蝦夷語地名解』…

忠魂碑と戦争

厚沢部小学校6年生を対象に、戦争と厚沢部との関わりについてお話をさせていただきました。 忠魂碑 厚沢部町本町の旧道沿いにある忠魂碑は大正8年に建立されました。題字は陸軍中将(当時)の田中義一です。田中は在郷軍人会の生みの親といわれる人物です。 …

厚沢部町最古の草分け伝承〜上俄虫〜

上俄虫の草分け伝承 明治19年に北海道庁の青江秀が全道巡検を行った際、事前に各戸長役場に諮問した項目に対する回答書です。有力者、将来希望する事業、地誌などの諮問項目ごとにまとめられている。俄虫村については次の回答があります。 俄虫村 該村は天正…

旧地名が多く残る上の山

上の山は厚沢部町市街地から厚沢部川を1kmほど遡ったところに位置し、厚沢部川の右岸と左岸に広がる字名です。 山が迫り、居住スペースが少ないため、大正9年発行の5万分1地形図でも建物はほとんどみえません。 大正9年発行5万分1地形図 字上の山の旧字名 居…

SAGA GISを活用した水文環境の分析〜史跡館城跡の事例〜

北海道厚沢部町では史跡館城跡の整備計画作成を進めています。整備計画では遺構だけではなく、植生や社会的な環境、給排水の環境も調査し、整備のアセスメントを行うことが求められています。特に給排水の構造を無視した史跡整備を行うと、遺構の保存や活用…

大谷農場と寺田省帰〜木間内と農場開放〜

厚沢部町字木間内はアイヌ語の「キムン・オ・ナイ」(山奥に・ある・川)が語源と考えられます。現在の社の山川がかつては「キマナイ」と呼ばれており、これが木間内の語源と考えられます。この経緯は字名に昇格した「社の山」地名で詳述しています。 鶉川の…

古くて新しいまち「新町」

厚沢部町新町は、役場、消防、図書館・体育館、小中学校がなどの公共施設が密集する厚沢部町の中心地です。一方、旧字名は赤沼、下俄虫、女ノ越、丸山の4つしかありません。しかも大半は下俄虫です。新町はほとんどすべての領域が「下俄虫」となる地名的変化…

厚沢部の入口「峠下」

厚沢部町字峠下は函館から江差へ向かう国道227号の厚沢部側の入口にあたります。鶉川のもっとも奥にあった集落が峠下でした。「峠下」という地名は日本全国の至るところにあり、近隣では「箱館戦争勃発の地」として知られる七飯町峠下があります。 峠下の旧…

字名に昇格した「社の山」地名

鶉川の支流に社の山川という小さな河川があります。この社の山川を挟んだ段丘面に字「社の山」があります。 字社の山の旧字名 「社の山」の旧字名は少なく、「木間内」、「東館」、「東館原野」、「須賀」の4つです。これらの旧字名はすべて別の集落の一部で…

史跡館城跡にちなんだ「城丘」地名

城丘と糠野(ぬかの) 城丘旧地名地図 厚沢部町字城丘は厚沢部町でもっとも奥まったところにある(主観的ですが)集落です。厚沢部川対岸の字富里と並んで、行き止まりの集落となっています。 現在の字名「城丘」は、この集落に国指定史跡館城があることから…

三上超順力試之石はどのくらい重いか〜iPhone LiDARとCloudCompareによる体積計測〜

フォトグラメトリやiPhone LiDARによって取得した三次元データから体積を計測する方法を紹介します。 三上超順力試之石と祟りの伝説 館城内に安置される「三上超順力試之石」 「三上超順力試之石」は厚沢部町字城丘史跡館城跡内にある丸石です。次のような話…

松前藩の鷹打場〜旧地名「鷹落」をめぐる謎〜

現在の鷹落(2022年9月17日撮影) 厚沢部町字鶉に「鷹落」という旧地名があります。「鷹落」地名は「鶉本村」の西側に広がります。 旧字名「鷹落」の分布 現在の「鷹落」には厚沢部町が設置した看板があります。看板の記載は次のとおりです。 厚沢部町が設置…

厚沢部町の「メノコシ」地名

松園町とメノコシ地名 松園町は旧大字俄虫村の一部で、その大半は「女ノ越(めのこし)」という旧字名です。 女ノ越は松園町だけではなく、上の山にも広がります。 明治29年国土地理院発行5万分1地形図では、現在の上の山の領域に「メノコシノ沢」が見られ、…

旧大字名「館」を冠した新興地名「館町」

厚沢部村旧大字館村から館地名を引き継いだのが「館町」です。 いわば大字館村のフラッグシップ集落を継承したことになります。 しかし、その歴史は浅く、集落の形成は明治後半に入ってからです。 過去記事で述べたとおり、厚沢部町「館」地名の語源は現在の…

赤沼集落の沿革と地名の由来

赤沼集落の沿革 厚沢部町赤沼町は、昭和35年の字名改正で字名の変更がなかった数少ない集落です。赤沼集落の文献上の登場は遅く、管見の範囲では近代になるまで現れません。集落の草分けは陸奥国南部から移住した喜代三とされています。明治19年の『青江理事…

厚沢部町字新栄に残る「館」地名と謎の「ロクロ場」

厚沢部町字新栄の旧字名は大字館村「館ノ下」、「館ノ沢」、「館ノ岱」、「館越」、「ロクロ場」です。これらの地名は、ともに厚沢部の歴史にに関わる重要な意味があります。 館地名の由来 厚沢部町の館地域には、明治元年(1868)、松前藩によって「館城」…

古写真で見る厚沢部町本町市街地の変化

国道227号周辺の厚沢部町本町は、昭和35年の字名改正までは、大字俄虫村に属しました。明治時代の初めまで「俄虫」といえば、今の上里が中心でした。明治19年の鶉山道開通をきっかけに、現在の国道227号沿いに市街地が形成されていきました。 以下に掲載した…

厚沢部町「土橋(つちはし)」の語源

土橋村の草分けとヒノキアスナロ 北海道厚沢部町字富栄の旧大字名は土橋村です。延宝6年(1678)に喜三郎が津軽から移住したのが草分けと言われています(『青江理事官諮問回答書』)。延宝6年は『福山秘府年歴部』の延宝6年の項に「この歳初めて、山人をし…

科学の力が解き明かす館城のすがた〜金属探査編〜

この記事は、2022年3月26日に開催した「あっさぶ郷土学講座」の配布資料をもとにしています。令和3年8月に行った、館城跡の礎石建物の周辺で金属探査やレーダー探査、磁気探査などの地下探査のうち、金属探査について記述します。 探査領域は藩主の住宅を含…

鶉川ゴヨウマツ自生北限地帯でゴヨウマツを確認する

2022年3月27日の踏査 前回の3月12日の踏査では、ゴヨウマツらしき針葉樹が低い尾根に存在することを確認しましたが、尾根を降りて接近すること無く引き返してきました。 今回は、尾根を下り、遠くに見えていた針葉樹に接近してみました。 指定範囲の手前の尾…

雪で折れた見出しの笠松

2022年2月17日、厚沢部の本町にある見出しの笠松の太い枝が、雪の重みに耐えきれず折れてしまいました。 見出しの笠松は昭和48年3月17日に指定された北海道記念保護樹木です。 見出しの笠松 近づいてみると、太い枝が折れているのがわかりました。 見出しの…

旧字名「大丁岱」

北海道厚沢部町には「字鶉」と「鶉町」があります。全国的も珍しい「鶉」地名が町内に2箇所もあることになります。 現在、字鶉は「本村」と呼ばれるように、昭和35年字名改正以前に「鶉」といえば字鶉のことを指すものでした。鶉地名については過去に「鶉マ…

意養鉱山調査記録

厚沢部町字上里にある意養鉱山の調査について、一通りのフィールドワークが完結したので記録として残します。 厚沢部町の鉱山 厚沢部町にはかつて稼行していた鉱山が2つありました。俄虫(がむし)鉱山と意養(いやしない)鉱山です。 意養鉱山及び俄虫鉱山…

五稜郭はなぜ星型か

函館市五稜郭のような稜堡式城郭は、突出した稜堡の特徴性が強く、しばしば「稜堡」そのものに重要性があると誤解されます。 しかし、「稜堡」そのものは「結果として生じる」ものであり、突出した稜堡自体が防御機能を有するわけではありません。 五稜郭と…

坂を登る不思議な用水

「あっさぶ七不思議」の一つ、なぜか水が上に登っているように見える不思議な現象です。 厚沢部町赤沼町にある用水路は、上流側から見ると水が低い方から高い方に流れているようにみえる不思議な用水路です。 坂を登る用水 フルスクリーン表示 用水路は上流…

鶉山道を歩く「37甲_俄虫村字焼山旧道及び岩面眺望」編

『鶉山道図鑑』「37甲_俄虫村字焼山旧道及び岩面眺望」に描かれた「旧道」を確認したくて現地に行ってきました。 結論から言うと、場所を間違えました。 どうやら一本奥の尾根を上がってしまったようです。 37甲_俄虫村字焼山旧道及び岩面眺望之図 踏査ルー…

レク森観察会〜雪森トレック〜

2月13日(土)、厚沢部町土橋自然観察教育林でスノートレックを行いました。道南各地から30名を超える方々のご参加をいただきました。 準備体操を終えて森の奥へ向かいます。 森の入り口でウサギの足あとを見つけました。 ウサギは、前足を前後に着地し、後…

「 “あっさぶ”の 鹿子舞(通称ししこ踊り) 」復刻版

昭和40年に厚沢部町教育委員会が作成した「“あっさぶ”の鹿子舞(通称ししこ踊り)」は、厚沢部川流域に伝わる鹿子舞調査の記録として貴重な資料です。本資料は刊行後50年を経ていることから、パブリックドメインとしてここに全文及び図版を掲載します。 なお…

『鶉山道図鑑』を読む

『鶉山道図鑑』とは 『鶉山道図鑑』は明治19年に成立した北海道庁が最初に手がけた大規模な公共工事の記録です。鶉山道の工事は明治18年8月に着工され、19年に完成しました。『鶉山道図鑑』は、本工事の現場視察に北海道長官・永山武工事北海道長官永山武四…

北海道公共工事発祥の地、鶉山道中山峠を越える

旧中山トンネル 中山峠 厚沢部町と北斗市の境界にある中山峠は、安政元年の箱館開港以来、西在江差と開港場箱館をつなぐ陸上交通の要衝となりました。古くは江差の商人鈴鹿甚右衛門が鶉山道として開削を行い、その後も江差商人や真宗大谷派による道路開削が…