上俄虫の草分け伝承
明治19年に北海道庁の青江秀が全道巡検を行った際、事前に各戸長役場に諮問した項目に対する回答書です。有力者、将来希望する事業、地誌などの諮問項目ごとにまとめられている。俄虫村については次の回答があります。
俄虫村
ここでは、天正年間(1573〜1592)に陸奥国福島から「徳兵エ」が入植し、ヒノキアスナロ伐採に従事するかたわら農業を営んでいたことが記されています。
現在でも上里には「徳兵衛」を襲名する家があり、「厚沢部で最も古い家」とされています。
松浦武四郎『廻浦日記』にみる俄虫村
松浦武四郎による安政3年(1855)の蝦夷地踏査記録である『廻浦日記』では俄虫村について次のような記載があります。
俄虫村
此処人家四十軒斗処々に散乱したり。畑多く又桑の木多し。名主麻上下を着して迎に出る(八十四才)。然るに此処江刺より皆合子を運び有。先時を問ふに早七つ頃、笹山にて昼飯せしと云うもののわづか鶏卵の如きもの二粒にし有れば、只目を□め来りし処、取りあえず存分に喰したる。此処へ馬七八疋を繋たり。扨是より早く是に乗りて出立するに、五六丁上に上がりて、(後略)
人家は40軒ほどで、散在していると記します。「人家四十軒」というのは諮問回答書に極めて近い数字です。畑が多く、桑の木も多く見られたようです。
名主が上下を着用して出迎えたと記載があります。厚沢部川流域の村々で武四郎一行を村役が出迎えたのは目名村と俄虫村のみです。両村が当時の拠点的な集落として江差方面から情報が入っていたことを示すエピソードと思われます。
松浦武四郎『再航蝦夷日誌』
弘化3年(1846)の蝦夷地探検に記録では次のような記録があります。
俄虫村
人家四十弐、三軒。ここかしこに落々と建たり。稼方前にしるす如し。炭焼、檜山稼のもの多し。鮭場出張一か所有。故に此川筋鮭漁の節は流し木を禁ず
戸数の記載は諮問回答書、廻浦日記とほぼ共通して42〜3軒で点在している様子として描写されます。炭焼きとヒノキアスナロ伐採に従事する者が多いとします。
また、鮭場が一か所あり、そのため鮭漁の時期には流し木、つまり木材の流送が禁止されたということです。
俄虫村の旧字名
主な地名として下流から「万助谷地」、「上俄虫」、「与兵衛岱(米兵衛岱)」、「意養(イヤシナイ)」があります。
「万助谷地」は現在の太鼓山スキー場下の水田地帯です。「谷地」というだけあって、湿潤な土地なのでしょう。
「上俄虫」は集落の中心で、俄虫村の住民の大半はここに居住しています。
与兵衛岱(米兵衛岱)」、「意養」は安野呂川支流の意養川流域に広がる地名です。「意養=イヤシナイ」は地元では「ヤシナイ」「ヤシネ」のように発音します。アイヌ語地名であることは間違いないのですが「イヤシナイ」の読みで考えると解釈を誤りそうです。
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