厚沢部町字上里にある意養鉱山の調査について、一通りのフィールドワークが完結したので記録として残します。
厚沢部町の鉱山
厚沢部町にはかつて稼行していた鉱山が2つありました。俄虫(がむし)鉱山と意養(いやしない)鉱山です。
俄虫鉱山は赤鉄鉱石、意養鉱山は硫化鉄鉱石を採掘していました。 俄虫鉱山では昭和17年と28年に主な採掘が行われ、それぞれ7,000トンと1,000トンの採掘が行われたようです(工業技術院地質調査所,1974『館地域の地質』地域地質研究報告5万分の1図幅,pp.47-48)。 俄虫鉱山については、このブログでも取り上げたことがあります。assabu.hatenablog.com
今でも、搬出路跡からは赤鉄鉱の塊を採取することができます。
硫化鉄鉱を採掘していた意養鉱山
意養鉱山は昭和12年に渡島鉱山として北海道硫黄が探鉱し、昭和25年から26年にかけて稼行されました(前掲書,pp48-49)。坑道は3箇所掘削されたようですが、現在は全て埋没しています。
現在の意養鉱山跡には、埋没した坑道跡や火薬庫跡が残っています。また、用途不明の竪穴状土坑がいくつも残されています。
火薬庫跡
火薬庫は長軸10m、短軸5.5mの長方形の竪穴です。急斜面に構築されており、深さは約2mです。
南側に出入り口と思われる開口部があります。かつては丸太で作られた頑丈な門があったといいます。
意養鉱山の坑道跡
坑道跡と思われる遺構は3箇所確認できました。記録に残る3箇所の坑道のうち1つは他の2つから250m離れているとされるので(北海道開発庁1957『北海道地下資源調査資料』第30号,pp46-47)、私が確認したうちの一つは誤認の可能性があります。
坑道跡は下端幅約3mの溝で、等高線に直行するように山腹へ向かって延びていきます。
意養鉱山の南側は湿地帯になっており、かつては冷泉の温かい水を利用して苗代が数多く作られ、上里集落の人たちばかりでなく、江差町小黒部や上流の滝野、稲見の集落の人々もここで苗づくりをしていたそうです。
鉱山から流れ込む水が沼地を真っ赤に染めています。