昭和40年に厚沢部町教育委員会が作成した「“あっさぶ”の鹿子舞(通称ししこ踊り)」は、厚沢部川流域に伝わる鹿子舞調査の記録として貴重な資料です。本資料は刊行後50年を経ていることから、パブリックドメインとしてここに全文及び図版を掲載します。
なお、もともとB5版縦書きの資料を横書きウェブ版に改変しています。可能な限り、紙版のレイアウトに即して編集しましたが、ウェブ版と紙版の体裁の違いがあることをご了承ください。
厚沢部川流域の鹿子舞(通称 鹿子踊り)
古い記録から
厚沢部町の命の綱としての厚沢部川は、桧山開発で北海道史の上に明らかにされているが、この開発で津軽方面の人人が労力源として、出稼や、移住してきた。それと同時に該地方の文化が伝えられたが今日無形文化財として伝承されているものに鹿子踊り(ししこおどり=鹿子舞)がある。
古記録が少なく、分明にすることはできないが
天明四年(一七八四)『東遊記』
「アツサブと云村あり、川にそひ広き在所也。鮭の猟はよれども、農事もよく勤る故、産業豊かに農家千軒ほど有。過半南部山家の貧なる百姓移り来て住居せり。浜辺の人の如く金銭沢山に遣ひ捨ることあたわずといえども、妻子を養うて飢寒のうれへを知らず。
と南部家の移住を伝えているし、現在でも各部落の古老の話を綜合すれば、主として南部津軽の人びとが多く移住して来たことを異口同音に証している。
ししこ踊り(鹿子舞)についての古記録としては、
文化四年(一八〇七)
『桧山番所是迄之年中行事』
松前藩が内地移封にあたり桧山番所の引継書の内のものであるが、その七月の頃に
同十五日月並之礼相済。泊村ヨリ獅子舞罷上リ玄関前ニ而踊候ニ付折敷エ、散米、継鳥目弐百銅差遣候。尤、翌十六日罷上リ候儀モ御座候、前々ヨリ仕耒ニ御座候
と江差の桧山番所(桧山奉行所ともいっていた)玄関で、泊村の獅子舞を奉納している。これが泊村ばかりでなかった。
文政元年(一八一八―文化一五年)『北夷談―第六』
七月盆中に盆踊と号して市中に踊り有り。厚沢部の村々より獅子踊りと称し、百姓ども手前拵の獅子頭を被り、江指へ来て踊りを為すに何か唱う事有りびんささらを以て拍子をとり、尤笛太鼓も有り。至て古風の事にて、私領の節は役所へ入って踊りしと云。御領に成りては入れず、会所におゐて踊らせ、御役所より鳥目弐百銅、白米壱升を出す事仕来りと云
幕府管轄となっても、このしし踊りの古仕来を尊重しておったことがわかるが、獅子踊りは現在の鹿子踊(ししこおどり)であることが明らかで、これが厚沢部の村々から江差に出かけて行き、番所や、会所に敬意と祝意を表していたわけである。
前記『桧山番所是迄之年中行事』にあるとおり、前々ヨリ仕来ニ御座候』で、一六〇年前には年中行事として獅子踊りが厚沢部に沿う部落で盛んに行われていたことが明らかである。
しかしいつごろから踊られたかについては明らかでないが、この文化財が津軽や、南部家によってもたらされたとすれば、早くしかも多人数の人たちが移住するようになったと考えられる延宝年間(一六七三~八〇)―すなわち桧山開発をはじめたころからであろう。
この山子(杣夫)たちのもたらした文化が、神事と結びついて鎮守例祭に佛事に結びついて、お盆にやるということになったとすれば、当町の各部落の神社や寺が整った宝暦年間(一七五一~六三)のころとなろう。そうだとすれば、すくなくとも二〇〇年の伝統があることになるわけである。この流域の鹿子舞は、田沢、泊、豊部内、五勝手の鹿子踊と密接な相互関係もあることであろうが今後の研究にまたなければならない。
現在の鹿子舞保存部落と相互関係
江差町内と当町内との関係
江差町
- イ 柳崎(土場) 不詳 当路・鯎川にわけた
- ロ 小黒部 〃
- ハ 鯎川||当路と前後してか 柳崎の下鹿子となる(年月日不詳後記)
当町内
- イ 冨栄(土橋) 不詳 沼の沢にわけた
- ロ 赤沼町(赤沼) 再興以前不詳|再興明治四四年七月 安野呂の下鹿子となる。乙部村姫川にわけた
- ハ 上里(上俄虫) 不詳
- ニ 滝野(安野呂) 〃 赤沼にわけた
- ホ 当路 南館町と前後してか 柳崎の下鹿子となる
- へ 南館町(沼ノ沢) 明治三五年 冨栄の下鹿子となる 以上のように、厚沢部川は江差町と当町にまたがっているために部落の交流が常になされているために、鹿子舞のような文化の交流もなされていたことは古くからあったにちがいない。
相互の交流は地図に示すとおりで、鯎川、当路、南館町、赤沼、姫川(乙部)は明治三五年以降の創始か再興であるが、残りの柳崎、小黒部、冨栄、上里、滝野にしても確かな証拠はないが、古い時代に下鹿子(分 家)となったものもあるようである。たとえば、江差町豊川町(豊部内)鹿子舞は該地の古老の間にはむかし赤沼からもらったものと伝えられていたという。ところが赤沼で中絶後、再興のときすでに豊部内との関係は忘却されるぐらい遠いむかしになっていたのであろう。
こうして、厚沢部川沿いに保存されている鹿子舞文化は永い年代を経ているだけにかなり各部落(地域)の特色が交流しあって本来のものか影をうすめているのでなかろうか。
よく古老は、「自分らが若いとき踊った踊りと今の者の踊をくらべると、頭、手、胴の均衡がとれておらず、なにか形のまねに過ぎず、とても心も気合いもこもっていない」酷評するという。
近接した部落だけに長年月の交流はその特色をなくし、また伝承者自体が数十年のうちに、その踊の眞髄をなくしているのでなかろうか
厚沢部川流域から江差柏町にいたるまでの地域にあるこの鹿子文化が、どんな相互関係があるか、発祥地とする東北地方とどんなつながりがあるか。鹿子舞の眞髄はどこにあるかなど大いに今後の研究に期待したい。
鹿子をわけるには=下鹿子とするには
相手部落有志の請いにより、礼をつくして交渉するものである。一たんわけることに決すると、相手方は一ヶ月近くも日参して伝授をうけなければ眞髄を承け継かれぬと古老が語っている。
なお下鹿子であるという形見として、富栄と南館町の関係では鹿子頭など一同を作って贈ったというし、また安野呂と赤沼の関係では、安野呂は、笛の吹き方と太鼓の打ち方にちがいをつけて伝授され、これが下 鹿子のしるしだと申渡された。したがって笛と太鼓の奏し方ですぐ赤沼の鹿子だと判断できるようになっているという。
このように下鹿子―つまり分家を出すにしてもこのような配慮があったとすれば、このようなことが現在の各鹿子舞の特色として残ってい る要素となっているのかもしれない。
厚沢部町内鹿子舞
赤沼の鹿子舞、附安野呂の鹿子舞
- ① 名 称 赤沼の鹿子舞(通称赤沼のししこ踊り)
- ② 所在地 厚沢部町赤沼町
- ③ 地域の概況 農業を主業とする地域で現在五〇戸あり、厚沢部川の支流安野呂川によって、新町、本町(元俄虫といった)と南北に相対している。明治初年までは、赤沼の戸が戸数が多かったといわれている。現在は新町、本町の市街発展はめざましく遠からず赤沼町をふくめて、厚沢部町中心市街地を形成するであろう。
- ④ 伝承者 赤沼鹿子舞保存会 昭和三七年九月設立
- 会 長 北 盛二
- 副会長 工藤 正
- 会 計 工藤利雄
- 顧 問 工藤百太郎 工藤米蔵
- ⑤ 沿 革 部落にはむかしから「赤沼のししこおどりがあった。明治二〇年過ぎにどうしたことか中絶してしまった。その後再興の声がおこり部落の協議となったが、ときすでに遅く、忠実な伝承者がなくなっていた。そこで熟議の結果「赤沼のししこ」に最も近いと判断された安野呂の鹿子をもらうことになった。一ヶ月も日参した若者連中が伝授されて下鹿子となって現在にいたったが、三年前保存会を結成し保存に部落あげて協力している。
発祥地は東北地方であることは明らかである。当地への移住者として町史上にあげられているのは、万治年間(一六五八~六〇)陸奥南部から喜代三、豊吉の両人移住、天保八年(一八三五)青森茶屋町から五兵衛(工藤氏祖)が移住したがって、赤沼の鹿子舞はこうした移住者が後に続いたというから古くからあったというのは確かであろう。
しかし、この赤沼伝承の固有のものは中絶し、安野呂鹿子を請けたため、以下述べるとことは、安野呂に伝わる鹿子舞だわけである。安野呂もいつから踊りはじめられたか不詳であるが、安野呂もまた当町では早く開始された歴史をもっている。正保年間(一六四四~四七)久右ェ門が移住しており、寛政二年(一七九〇)蝦夷草紙は、蝦夷島の西在で開拓の進んだところは、アツサブ、アンノロ辺があり、東在では、大野一ノ渡、七重など七村ありと記してある。今から百七五年前の安野呂は、東の大野と対比されるぐらいに拓かれていたからこのころは、この獅子舞も行われていたことであろう。
とにかく隣接の部落であったが両者の獅子舞は、それぞれ特色あるものとして伝えられて来たらしいが、ついて現在は安野呂の獅子舞が赤沼に生き、さらに姫川に伝えられているのである。
赤沼獅子舞略歴
年月 | できごと |
---|---|
年月不詳 | 踊の発祥地よりの伝来 |
明治二〇年過 | 中絶 |
仝 四四年八月 | 安野呂鹿子の下鹿子となる。 |
大正未年 | 江成築港落成に江差町の招待で出演。 |
昭和九年九月 | 安野呂の西光寺の堂●改築祝に出演。 |
仝 二五年八月 | 下鹿子となって四〇年に当るため、里帰りというので安野呂に出張し祝う |
仝 九月一〇日 | 乙部村姫川の有志の請いにより鹿子をわけた。 |
仝 九月一七日 | 沼ノ沢(南館町)の例祭にあたりその招待で出演 沼ノ沢、市街地、東館の三ヶ所で踊った。 |
仝 二九年九月一〇日 | 乙部村忠魂祭に出演 |
仝 三七年九月 九日 | 踊る若者がいなくなり獅子舞解散。 |
仝 九月二〇日 | 北盛二発起となり部落の協賛を得て保存会を設立 |
仝 一一月三日 | 厚沢部小学校開校八十周年祝賀に出演。 |
仝 一二日 | 江差竜神社の招待で出演奉納。 |
仝 十二月一五日 | 赤沼橋竣功祝賀に出演、町では八ミリカラーフィルムにおさめた。 |
表現の形式内容など
服装その他諸用具と格納
- 服 装
- イ しし頭(がしら)のついた幕(上衣)を着用する。からくさその他の模様もある。
- ロ ももひき(ダンブクロともいう)黒タビわらじをはき、ももひき三尺(さんじゃく―細ひも)でしめる。
- ハ こて(手の甲、腕にかかる長いもの)をつける
- ニ ごへい(御幣)を後腰にさす。
- 以上はすべて自作のもので、しし頭は、雄、雌、老の鹿を表すもので、それぞれ、角、面、などに差異があるが略す。
- その他諸用具と格納
- イ 笛
- ロ 太鼓とバチ
- ハ 高張灯ろう
- ニ 警護棒
- ホ 手平(てぴら)
- ヘ ささら
- ト 面(めんこ)
- チ ヤマ(青木)
- リ むしろ(ござ、すだれなど橋の代用となる)
以上の諸用具中、服装類は特にていねいに箱に格納して、他の用具類とともに鹿子宿が責任をもって保管する。
- 各役と配置
- イ はやし方 太鼓 二人
- 笛 二~四人
- 手平 一人 - ささら 一人
- ロ 歌 手 ヤンコ=扇子持 一~二人
- ハ 踊 手 雄じし 一人
- 雌じし 一人
- 白さぎ(老鹿) 一人
- ニ おかしこ 道化役 一人
- これは直接踊りには関係なく、踊手の休息時などに観衆を喜ばしてつぎの段階へつなぎ役をなすもの
- ホ 世話役 二~四人
- 道行きのとき先頭にたち、連絡係をしたり、その他踊の進行の世話をする
- ヘ 高張灯ろう持 二人
- ト 警護棒持 四人
- 道行き(行列の場合)
- イ 先頭 世話方
- ロ 警護棒持
- ハ 灯ろう持
- ニ 山(青木)持
- ホ 太鼓
- ヘ 笛
- ト 手ぴら、ささら持
- チ 扇子持(ヤンコ)
- リ 雄じし
- ヌ 雌じし
- ル 白さぎ
- オ おかしこ
- ワ 警護棒持
- 着座の場合
- 間 面 はやし方 白さぎ この順序に着座し踊りは
- ノ 太 鼓 雌じし 雄じしから動きはじめる。
- 床 正 笛など 雄じし - 扇子持
- その他
踊りの時期
毎年八月七日いわゆる七日盆(旧七月)に鹿子宿で箱びらきといって、格納してある箱を開らいて鹿子頭をはじめ諸道具をとり出す。お神酒(みき)をあげる
- 一三日 墓詣りをする
- 一四日 この日鹿子頭の化粧替えをする。新しくなった鹿子が踊ることになる
- 九月の赤沼神社の例祭の宵宮祭と本祭に踊る
- 九月一七日 鹿子納めをする。このとき用具の一つひとつをほめて納める。
以上が例年の踊る時期とするしきたりになっているが他の祝意のため、落成その他の招待には喜んで出演して来たのである。
踊りの演出構成
- 序 幕
- イ 追込み(ぼつこみ)目あての箇所(例えば祝意を表する家にいくような時)に至るまでに、三頭の鹿が、進んでは退く動作を二回繰り返して、勢よく突進む・・・・・・・ 感情をたかめるためのもの
- ロ 山といって青木(緑の葉の木の枝)をたてる。それには警護棒持の連中が玄関前に、ソーラン節を歌いながら棒で突き地上に穴をあける。そこの青木を立て―山をつくる―これを山と立てるという。
- ハ さんば 山が立つと、雄、雌、白さぎと三頭の鹿が出て、ぐるぐる踊り廻る。これは、山の鹿で遊んでいる光景をあらわすものだという―他の鹿子舞では省略しているところがあると。
- 本 番
- ニ 橋渡り 大川に風倒木が、かけ橋状態になっている。それを三頭の鹿が渡っていくのだが、はじめ雄がわたり、戻り雄と雌が渡り、最後に戻って、雄、雌、白と三匹で渡っていく光景
- ホ 山がかり(山あがり)山に登っていく。敵を警戒しながら頂上に達する。雄鹿が山(青木)を取払ってしまう(山を征服したという意味か)
- ヘ 雌鹿子ぐらい 雄鹿が雌鹿を得るために、老鹿の白さぎと闘争する。老鹿勝って雌鹿をかくす、雄鹿苦心の結果これを探し出す、再び雄鹿と老鹿と激闘するが、今度は雄鹿の勝利となった。しかし両者無益の闘争を繰り返す愚を悟って、ここで三者相和する場面を展開して大団円となる。
- 終 幕
- ト 友達という歌につれて、お礼して帰途につく。
以上のような構成になっているが、安野呂の古老は、〝イ~ハは踊の本ものでなくて、ニ~ヘが本来の踊りで、これでこの踊が上手が下 手か、心がこもっているか、いないか決するのだから大事なのだ。イ~ハは後でつけ加えられたものだ〟と語っているのは、眞を伝えてい るものであろう。
歌手のヤンコホメと歌
歌手、すなわち扇子持の歌は大別すると、二種となるが、一つは、ヤンコホメというもので、その招待された家の庭をほめ、家をほめ、ご祝儀をほめるというものであり、他の方は鹿子の踊りにつれて歌う本年のものとがある。
ヤンコホメ
- イ 墓詣り
- ヤン 御墓とな 急ぎ参りてきて見れば、香の煙もおだやかに
- ヤン 七月は、野でも、山でも、ともしびあぶら 灯ろう
- ヤン うぐいすは さても名所な鳥なれば、親の行末ついて知らせよ そのついて知らせよ
- ロ 鳥居
- ヤン 参り来て、ヤンコこれられの御門を見申せば、如何なる大工がたてたのか、ひだのたくみのたてた御門
- ヤン ぬきは桑木、柱黄金、黄金、白金、戸びらひらくもの、そのひらくもの
- ハ 庭
- ヤン 参り来て このお庭を見申せば 四方四面の枡形の庭
- ヤン には草 黄草小草足にからまる その足にからまる
- ニ 館(屋形)
- ヤン 参り来て 屋形を見申せば 屋やちむね こけらふき これらたよりに生きたから
- ヤン 只の根 一の枝から二の枝に、鶴と亀とがすをかけた 鶴は千年 亀は萬越せる、その萬越せる、
- ホ 内神(うじがみ)
- ヤン 参り来て御堂を見申せば、如何なる大工がたてたのか、ひだのたくみのたてた御堂
- ヤン なげしには、牡丹にから獅子竹に虎、黄金白金戸びらひらくものそのひらくもの
- へ 橋
- ヤン 参り来て 御橋を見申せば 如何なる大工がかけたのか、ひだのたくみのかけたそり橋 橋はそり橋、飛ぶにとばれぬその飛ぶにとばれぬ
- ト 舞山(やま)
- ヤン 参り来て 御山を見申せば、日本では一富士二枝と思へども、三に白山黄金山さても名所な、さても名所な宝山、その名称な宝山、
- もし山に白紙を結び下げてあるときは
- ヤン 参り来て御山を見申せば、東にさしたるこの枝に、神(紙)は下がれず黄金山さても名所の宝山 その名称な宝山、
- チ 馬屋
- リ つぼ庭
- ヤン 参り来て この御つぼを見申せば、牡丹にから草咲きみだる、黄金に小草は足にからまる、その足にからまる
- ヌ 灯ろう
- ヤン 参りて来て 灯ろうを見申せば、しんに立てたる灯明で、日本四方輝く灯ろうのありがたさ そのありがたさ
- ル 上灯ろう(本殿の灯ろう)
- ヤン 参り来て、上灯ろう見申せば、二本つり縄 四方かがやく
- ヤン するすると上れず 灯ろうのありがたさ そのありがたさ、
- オ 大寺詣り
- ヤン 朝日さす 夕日輝く大寺の 和尚たちの絹の夜にけさかけて、みすの内よりさんけいする、そのさんけいする
- ヤン 七人の菊の下葉の露にもまるく その露にもまるく、
- ワ 神社詣り ここでは、鳥居、庭、神殿、灯ろう、ごへい橋、岩舟、その他上げ物まで、残らず皆ほめることになっている。
- カ 御酒
- ヤン 亭主様、おみき下さるこの酒は、奈良の菊酒、泉酒、一合上げれば未広く、重ねて上げれば寿命長くなる、その寿命長くなる
- 神社でホメルとき、亭主様でなく上司様という
- ヨ 酒肴
- ヤン ご亭主様、酒肴をとりそろえ、我等に肴下さる過分なるもの、そのかぶんなるもの
- タ しやくとり
- ヤン 杓取りは、京で生まれて伊勢育ち、さてもきれいな美男子なれば、その美男子なれば
- ヤン 腰の物、腰にさしたる細刀、備前名刀兼光のきたえなり、つばは小つばで小判なるもの その小判なるもの
- レ 菓子
- ヤン 御亭主様 盆にのせたるこのお菓子 我らに下さる 過分なるもの その過分なるもの
- ソ すごろく(ご祝儀という)
- ヤン すごろくは、さいの上手につねられて 上は白紙 中は白金
- ヤン 白紙は書いて戻すはやすれけど、筆や硯は国へ忘れた その国へ忘れた。
- ツ 大川(ご祝儀であるが相当な金額のものときまた献ずる人の希望により、すごろくか、大川にするという)
- ヤン 大川の底を流るるかる石を、是をとるには袖をぬらさぬ、そ袖をぬらさぬ
- ヤン ともる大事、是を取り上げれば国の土産なる、その国土産なる。
- ご祝儀はとくに踊手の一人に指名して上がる場合当人がうける。そうでない場合は、雄鹿が受取って踊る
- ネ 岩舟(飲水のこと、むかしは手桶に水を入れて門口に出しておいた)
- ヤン 岩舟を、岩とわり出るこの水を 我らに下さる過分なるもの その過分なるもの
- ナ おさご(献米、初穂)
- ヤン 上司様、ぼんにのせたるこのおさご、我らに下さる 過分なるもの その過分なるもの。
- ラ 地固め
- ◎ かやぶき屋根の場合
- ヤン 館(やかた)見申せば、杵樌柱は銀細工、小棟木屋根に小金花吹く、屋根は野山に住むススキのカヤでふく、そのススキのカヤでふく。
- ◎ 柾屋根の場合
- ヤン 館を見申せば、桁樌柱は銀細工、小棟木屋根に小金花吹く、屋根は野山に住む桧のマサでふく その桧のマサでふく。
- ◎ かやぶき屋根の場合
- ム 友達(踊りおわって帰るとき)
- ヤン 友達は、数かず申せばさきなるも、一礼申して立てや友達 その立てや友達
- ウ 道行きで相手の鹿子連中に礼をつくす場合(神に対して敬けんの念をあらわすのだともいう)
- ヤン 三社の神を見申せば、さても見事な、神の御姿、そのおんすがた。
以上のホメ詞の不明な点が多々あるが、現在歌われているそのままを留めた。
なお、ヤンコホメは、歌い手が適時、即意即妙に詞にしてホメでよくしたがって、扇子持(歌い手)の人物を重視している。
歌
このうたをうたうことを歌いかけるという
- イ 七つ八つからつれて育てためじしこは、おれのお庭でかくしとらいもの
- ロ 友達はいくらめじしかくしても、時に一度は逢うとするもの
- ハ おじし、めじし、中じしめは、妻をとられてホロッと立つもの
- ニ 奥山の雲と露とを吹きはらし、今こそめじし逢うとするもの
- ホ しらさぎは、後を思えば立ちかねる、後を思はず立てや白さぎよ
- ヘ 浜に浜町、浜町通れ、波にうたれてホロッと立つもの
- ト 山ガラス、山をへだてて里に出て、ここのお庭で 肩を休めろよ。
- チ 京のししと、田舎のししと ここのお庭で肩をくらべろよ
- リ 松島の松をへだて見ようとせば、つたはよしののゆりにからまる。
- ヌ おじしめじしの振り舞見ねか、今の心は見えなくなるもの。
- ル 我らが嫁こ はたをおりおり なん七つきりこ 八つ八べようし 九つこの夜で逢うとするものよ
- オ ツバクラは、トンボ返しの荒をもしらをも、ツバクラ返しの本返しよ
- ワ キリギリス一つはねるもキリギリス、りきんではねろよ 本返しよ
- ―――一つでたりない(掛声)―――本返しよ
- カ 我らの国から、お急ぎもどりの文が来た、お急ぎ戻りか、花の都だよ
以上本番の踊りにうたう歌であるが、これも意味の通ぜぬものが多いが、そのまま集録した。
註 ヤンコホメ歌について、つぎに述べる富栄のものと対比することにより、やや明らかになるものもあり、他の鹿子舞と比較することによって、明確になるものが多いのでなかろうか。
土橋の鹿子舞
- ① 名 称 土橋鹿子舞(通称土橋のししこ踊りトンバのししこおんどり)
- ② 所在地 厚沢部町字富栄
- ③ 地域の概況 農業を主業とする水田地帯で、現在約八十戸あり、厚沢部本町とは国道に沿うて西方約一㎞の距離にある。むかし、桧山の開発ともに拓けた部落である。
- ④ 伝承者 厚沢部土橋鹿子舞保存会
- 会 長 杉 野 多 三
- 副会長 鹿 野 勝 夫
- ⑤ 沿 革 延宝二年(一六七四)津軽平内から喜三郎(あるいは金五郎)が冨栄(土橋)に移住した。これが杉野氏の祖といわれている。それから津軽南部衆が来ているので、現存する土橋のしし踊りもその人たちのもたらしたものだろう。部落では三〇〇年近い歴史をもつものと言伝いがあるがこれは桧山開発の延宝年間からのことになる。少くとも二〇〇年の伝統があるであろう。古老の話では、一〇〇余年前に、土橋のししこが福山に行ったことがあるといわれている。また館城に藩主がこられたとき、土橋では、この踊りで迎えたという話も伝わっているが、確かな記録はない。
土橋鹿子舞 略歴
年月 | できごと |
---|---|
明治三四年八月 | 館の沼ノ沢有志の請いにより、鹿子をわけた。当日は富栄(元土橋)では老人と子どもだけ家庭に残り、全部落挙げて沼ノ沢に出かけ鹿子舞を盛大に行ったと古老が語っている。他の鹿子舞と同じように、例祭はもちろん、他町村の祝賀行事に出演したことは数かずあった。 |
昭和三九年二月 | 函館市松風町森文化堂に事務所がある道南歴史研究会の有志によって、鹿子舞調査に来町、この記事読売新聞によって伝えられ、俄然土橋鹿子舞が脚光をあびた。 |
仝年 七月 | 函館市棒二森屋からの招待で出演。テレビにも写し出され、公表を博した。その後、部落総会で保存会を結成することになり、規約を制定し、本年一月実施して現在にいたった。 |
保存会規約
厚沢部土橋鹿子舞保存会規約
- 一 名称と事務所
- 第一条 本会を厚沢部土橋鹿子舞保存会といい事務所を会長宅におく
- 二 目 的
- 第二条 富栄に伝わる土橋鹿子舞の保存と後継者の養成を期することを目的とする。
- 三 会 員
- 第三条 富栄に居住する愛好者とその他、部落外の愛好者をもって会員とする。
- 四 役 員
- 第四条 役員は次のとおりとする。
- 会 長一名 本会を代表し会を統合する。
- 副会長一名 会長を補佐し、会長事故あるとき代理する。
- 会 計一名 会計事務にあたる。
- 理 事四名 諸案件の審議にあたる。
- 監 事二名 会計の監査にあたる。
- 事務局一名
- 管理人二名 諸道具の保全管理にあたる。
- 監 督一名
- 顧 問三名
- 五 役員任期
- 第五条 二ヶ年とする。但し再任を妨げない。
- 六 会 議
- 第六条 会議は次のとおり開催する。
- イ 総 会 毎年九月開催する。
- ロ 臨時総会 会長その必要を認めたとき緊急開催する。
- ハ 役員会 随時開催する。
- 七 経 費
- 第七条 会費、寄附金、補助金をもって経費にあてる。
- 八 規約改正
- 第八条 規約改正は総会の決議による。
- 九 特別委員会及び諸規定
- 第九条 運営上必要と認めるときは特別委員会及び諸規定を定める。
- 十 附 則
- 本規定は、昭和四十年一月二十日から実施する。
諸 規 定 昭和四十年一月二十日
第九条により次の規定を定める。 鹿子舞組心得
- 監督は、鹿子舞組の中核である。よく組員の統卒をはかること
- 組員は、常に監督の指揮命令をよく守り、伝統ある舞を完全にすること。
- とくに他に出張する場合は、本会の名誉と組員の誇りにかけて、いやしくも、とかくの批判をうけることなく、舞を奉納すること。
- 組員は、お互に後継者の養成につとめ、常に練習に心がけること。
- 指導的人びとの助言は大いにうけ、技を磨き完全なものにするためにつとめること。
服装
諸用具、各役配置、踊の時期、演出構成など、ほとんど赤沼に同じであるが、つぎの点が特色ある。
- 演出構成では、橋渡りを終るとここで踊手を休息させるため、ご祝儀などの上げ物のヤンコホメがあり、またオカシコが出演して、観衆抱腹絶倒させてくれることにしている。
- 赤沼のさんばのかわり ソバまきというまきつけの動作がされる。
- 踊の動作では、足の運びが他の鹿子舞と異なるのか大きな特徴だとされている。それは神楽獅子の最初の運びに同じという。神楽の技も取り入れられていることがわかる。
- 雌鹿を中心にしての、雄鹿と老鹿との激闘は気分に乗って充分演出すればよいので、ここには足の運びをうんぬんするなどの難かしい制約はない。
歌手のヤンコホメと歌
(全部集録できず、一部を記るす)
ヤンコホメ
- イ 庭
- ヤンマー イリキー ここのお庭を見わたせば、如何なるお方がたてたやら、四方四面枡形の、黄金、小草は足にからます。
- ロ 橋
- ヤンマー イリキー この橋をみ申せば、如何なる大工がかけたやら橋はそり橋、飛ぶに飛ばれぬ、飛ぶに飛ばれぬ
- ハ 山
- ヤンマー イリキー この山をみ申せば、如何なるお方が建てたやら白紙花咲く黄金なる、ソノ黄金なるもの
歌
- イ まわれ、まわれ、水車 おそくまわれ、せきにとまらぬ
- ロ 七つ八つから、連れて育てためじし子は、ここのお庭でかくしとられた。
- ハ 奥み山の風も霞も吹晴れて、今こそ友だち、めじし尋ねる。
- ニ 左たもとを縫糸そいて、忍び忍びに涙をふいて立つ
- ホ 白さきは、あとを思いは立ちかねる、あとを思わず立てや白さぎ。
- ヘ 京のししと田舎のししと、ここのお庭で肩を休めて
- ト 松島の松を育ててみ申せば、つたがからめは、ゆりにからまる。
- チ ゆりにからまるつたの葉も、縁がなければ、パラッとほぐれるよ
- リ 太鼓の堂をぎりぎり締まいて、ささらをざっくり、笛をそろげろ
- ヌ ハァキリギリス 一つはねろよ キリギリス、りきんではねろよ、愛のはたおり、一つでたりない愛のはたおり
- ル われらの国から、おいとまもらいの舟がきた、おいとま申します花の都だよ。
註1 ヤンコホメは赤沼のように数かずあるのだが、集録できない。
2 赤沼のヤンコホメ・歌と対比するとき不明の点が明らかになるようである。
鹿子舞(ししこ踊り)の起源
―――滝野の古老談―――
大永・文治年間(一五二二~五七)に在位なされていた第一〇五代、後奈良天皇がある年のこと、皇后が重い病気にかかられ百方医療に手をつくされたが、どうしてもだめであった。ついに皇后のお命は、今日か明日かという土壇場に追いやられてしまった。このとき、ある占い師のお告げがあった。
「皇后様の病気を治すの万策尽きたわけではないただ一つの方途がある。国中の鹿の中に金銀色のものがまれに発見されるが、その鹿の生肝をとって皇后様に服用していただくことである。今すぐ北方の山中を探すように」とのことであった。
天皇はさっそく役人たちに命じて鹿のすむ北方の山中に猟師をともなった一行を急行させられた。一行は、非常な困難と闘いながら鹿を追った。ようやくにして、鹿の一群を発見、はやる心をおさえて注視すると、是非獲らなければならない金銀色のものを、仲間とした三頭の群であった。この群は危険が目前に迫っていることも知らず無心に戯れあっているのであった。一同はこの情景に心うたれるものがあったが、ついにこれを犠牲にしてしまった。
生肝を得ることができた役人たちは喜びいさんで早馬を飛ばして御殿に帰り、つぶさにその状況を報告申し上げ生肝を献じた。さっそく服用された皇后は、占い師の予言が的中しグングン快方にむかわれてまもなくご全快になられた。天皇の喜びはひとかたでなかった。さっそく国中に保護を布告されて「鹿は、霊験をもついきものであるから、敬愛するように」との詔があり、そのうえ、ぎせいとなった鹿の慰霊のために、さきに役人の状況報告にあったとおり、無心に戯れていた情景を踊りとして殿中で舞わせて厚く回向し、また皇后の全快を祝ったのであった。
以上の物語りが鹿子舞の起りだと聞かされてきたということであった。
結 び
町内である、上里、当路、南館町についてよく調査することができなかったし、また、町内のものと関係深かい、江差町内の小黒部、柳崎についても、調査し、田沢泊、豊川、五勝手までも資料を求めて桧山郡の厚沢部川流域から、江差まで、地帯に残されている鹿子舞を明らかにし、その集約されている特殊地帯として保存させる必要があるように考える。
(昭和四十年六月九日)
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