厚沢部文化遺産調査プロジェクト

北海道厚沢部町の文化遺産や歴史、自然について紹介します。

古写真で見る厚沢部町本町市街地の変化

国道227号周辺の厚沢部町本町は、昭和35年の字名改正までは、大字俄虫村に属しました。明治時代の初めまで「俄虫」といえば、今の上里が中心でした。明治19年の鶉山道開通をきっかけに、現在の国道227号沿いに市街地が形成されていきました。

以下に掲載した写真は2016年撮影写真を除き全て白黒写真ですが、COLORIZE.で色つけをしています。

昭和35年本町市街地

昭和35年撮影本町市街地(江差方向)

昭和35年の本町市街地は、まだ舗装化が進んでおらず、古い家並みが見られます。 手前右側の2階建ての和風建築は老舗の大山旅館です。その奥にパチンコ店の看板がかかっている建物は「宮本酒店」です。「千歳鶴」(縦書き)、「きそば」(横書き)の看板のかかっているお店が、現在では国道を挟んで斜め向かいに移転している、前井食堂です。 前井食堂の奥に建物が2つみえますが、マルハチ高田呉服店をはじめ、いくつも店舗が入っていました。

写真右の手前から4本目の電信柱のところは、現在の本町三叉路で、右側が新町商店街です。 画面奥の突き当りに切妻屋根の妻側を見せている店舗は「ヤマコ小林商店」(酒屋)、その奥にある背の高い切妻屋根は「富吉」という精米所だったそうです。

昭和37年本町市街地(江差方向)

昭和37年撮影本町市街地(江差方向)

昭和35年写真とほぼ同じアングルで2年後に撮影された写真です。わずか2年の違いですが、道路がアスファルト舗装されていますし、立ち並ぶ建物にも変化が見られます。「人の出入りが激しく、同級生もずいぶん変わった」と本町で育ったOさんが教えてくれました。

宮本酒店があった二階建ての和風建築は外壁が改装され、「函館木工」になっています。函館木工は、函館市内にあった函館木工の社員だったIさんが、昭和37年に結婚を期に厚沢部在住となったことから、支店が開かれたそうです。この写真が撮影されたのは昭和37年ですから、写真に見えるのは、開設されたばかりの函館木工厚沢部支店ということになります。

一番手前の「進藤金物店」は土間床で、平らな床ではなく、厚沢部川の方向に地形なりに下っていくような床だったそうです。前出のIさんによると、店の奥にはフイゴもあったということですから、もともと鍛冶屋さんだったと思われます。

森藤旅館

森藤旅館は厚沢部の老舗旅館です。大正時代から現在の場所にあります。なお、厚沢部市街地で100年以上同じ場所で営まれている店舗は、森藤旅館、山田理容店、中島商店の3店舗です。

昭和35年及び37年写真撮影位置と森藤旅館

森藤旅館は国道拡幅のため、敷地が大きく減少しましたが、かつては現在の倍ほどもあったといいます。また、江差町側に隣接する「須藤商店」という駄菓子屋の店舗敷地も買い取って、建物を増築したといいます。建物全体は「コの字」状に配置され、中庭があったそうです。

総2階建で、2階の座敷は30数畳あり、隣の20数畳の座敷と合わせると盛大な結婚式を行うことができたそうです。総2階の建物の一部を3階建てとしており、ここは6畳ほどの部屋が一つ作られていました。昭和35年写真でひときわ高くそびえる切り妻屋根がこの3階部分です。2階の広間で結婚式を終えた新郎新婦が、この部屋で一夜を過ごしたといいます。「超スイートルーム」と言えるでしょう。森藤旅館の3階の部屋は今の役場のあたりからでも見えたといいます。

3階のスイートルームで教育委員会が開催されたことがあったとも言います。教員の処分に反対する組合員に教育委員会を妨害されることを防ぐため、役場庁舎ではなく、この部屋で隠密に開催しようとしたことがあったようです。

昭和37年本町市街地(函館方向)

現在の「福島モーター」さんのあたりから函館方向を撮影した写真です。

昭和37年本町市街地(函館方向)

画面に映っていない左側には役場庁舎がありました。現在の「まちなか交流センター」です。手前左手には現在も店舗が残る「ささき自転車店」があります。手前右手には駐在所があります。

駐在所の奥は「カネシンストアー」という雑貨屋さんがありました。その奥は現在の前井食堂ですが、この時期にはまだ倉庫が建っていました。画面右手の鍛冶屋さんは現在の「須藤金物店」、奥には「湯田呉服店」などが見え、現在は新町商店街に移転した小売店が国道沿いで営業していました。

画面奥のカーブのところは現在は農協のガソリンスタンドですが、この当時は農協店舗(ACCOOP)がありました。写真には写っていない農協店舗の反対側には、現在は「能登谷建設」の社屋がありますが、ここに農協の事務所がありました。

大正14年本町市街地(函館方向)

大正14年本町市街地(函館方向)

昭和37年本町市街地(函館方向)とほぼ同じアングルの大正14年撮影写真です。この写真が撮影されたのは、「忠魂碑のお祭り」のあった8月15日です。撮影年月日が分かる稀有な古写真です。

道の両側に電力柱がみえます。俄虫郵便局長だった関川盛の尽力で、大正13年に俄虫市街地の電化がなされています。写真に見える電力柱は設置されて間もないものです。

現在の本町市街地

大正14年写真と同じ位置から撮影された現在の本町市街地(2016年11月17日撮影)

現在の本町市街地には「商店街」の風情はありません。国道の拡幅により、自動車の交通量が増え、スピードも増しています。商業の中心は新町商店街に移っています。その新町商店街も店舗の衰退が続いています。

厚沢部町本町は、函館と江差をつなぐ国道227号の交通によって市街地が形成されました。昭和50年代までは役場が置かれ、郵便局、警察署が並ぶ厚沢部町の中心街でした。一方、増加する自動車の交通は、本町市街地を住みづらい場所に変えてしまいました。幅広い道路は車の通行には便利ですが、人が往来するには不便なものです。交通の発展によって開けた市街地が、交通の発展によって衰退していくというのは皮肉なものですが、こうした市街地の変化も町の生態系の歴史です。このような変化を地道に記録し続けるとともに、過去の写真を読み解き、町の歴史を探る工夫を続けていきたいと思います。

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