厚沢部文化遺産調査プロジェクト

北海道厚沢部町の文化遺産や歴史、自然について紹介します。

2020-01-01から1年間の記事一覧

北海道公共工事発祥の地、鶉山道中山峠を越える

旧中山トンネル 中山峠 厚沢部町と北斗市の境界にある中山峠は、安政元年の箱館開港以来、西在江差と開港場箱館をつなぐ陸上交通の要衝となりました。古くは江差の商人鈴鹿甚右衛門が鶉山道として開削を行い、その後も江差商人や真宗大谷派による道路開削が…

謎のロクロ場遺跡

ロクロ場遺跡(仮称)は厚沢部川中流域右岸の厚沢部町字新栄に所在あります。旧鶉山道(現国道227号)から標高50mの「鶉越え」と呼ばれる尾根を越えたところにある小高い丘です。厚沢部川にむかって西へ延びる尾根の延長にある独立丘に近い小丘陵で、厚沢部…

厚沢部町郷土学講座「女性による食事づくりと地域のつながり」

講演会の様子 2020年8月14日(金) 厚沢部町町民交流センター 講師 尾曲香織さん(北海道博物館学芸員) 食事づくりを考える 冠婚葬祭での食事は欠かせない要素で、行事に伴って行われる共食・会食は民俗学では重要な要素となっています。地域の中で行われる…

上里墓地と地蔵堂

墓石の調査で上里墓地を訪れた際、地蔵堂を掃除している方(上里出身80歳代後半)がいらっしゃったので上里墓地と地蔵堂についてお話を伺いました。 上里地蔵堂 地蔵講 地蔵講は1月24日と8月14日におこなう。 おつゆ、赤飯、煮しめなどをみんなで作って地蔵…

蠣崎知二郎はなぜ碧血碑を建立したのかを松前藩の死傷者数から考えてみる

二つの碧血碑 箱館戦争戦没者の慰霊モニュメントとしては、旧幕府軍の戦没者の慰霊碑として函館山山麓の碧血碑が知られています。また、厚沢部町字木間内の鶉ダム周辺にも同名の「碧血碑」があり、こちらは松前藩士の慰霊を目的としています。 函館山の碧血…

俄虫鉱山トロッコ軌道

厚沢部町上里には意養川を挟んで西側に俄虫鉱山、東側に意養鉱山があります。意養鉱山は火薬庫跡をはじめ、比較的鉱山遺構がわかりやすく残されていますが、俄虫鉱山は明瞭な遺構が確認できませんでした。今回は、字滝野にお住まいのKさんから「子どもの頃に…

春のレク森散策

例年よりも圧倒的に早い雪解けのため、北海道教育大学旭川校斎藤和範先生とレク森散策をしました。 フルスクリーン表示 まだ春も早いので誰も入林していないようです。 教育林入り口 森林展示館から見本林へ上がったところで「あれ?アカナラ?」。見本林の…

ぐにゃりと曲がった富栄集落

厚沢部町の富栄集落は、上空からみると大きく湾曲した道路に沿って広がります。ぐにゃりと曲がった富栄集落の謎に挑戦します。 富栄集落のぐにゃり ぐにゃりと曲がった富栄集落 富栄集落の草分けは、延宝2年(1674)に津軽から渡ってきた喜三郎だといわれて…

館城の御殿

今は何も残されていない館城ですが、地面にはかつて建物が建てられていた痕跡が残っています。平成21年の調査では「本丸」、「役所」、「武士部屋」と呼ばれる場所を調査し、多くの礎石を発見しました。実は、館城の礎石は昭和39年にも調査がなされています…

文献にみる館城戦争

明治元年に厚沢部町字城丘に築城された館城は、明治元年9月初旬に着工し、同年11月15日に旧幕府軍松岡四郎次郎率いる幕府一聯隊の攻撃を受け落城します。文献資料に残された館城戦争の推移を示します。

厚沢部町「鶉」地名の謎にせまる

厚沢部町の鶉という地名は日本語の小鳥の名前がついている可愛らしい地名です。鶉川という川があるので、「鶉川の近くには鳥のウズラがたくさんいたんですか?」と聞かれることも多いものです。鳥のウズラが多く生息しているイメージがないので、ちょっと返…

檜山農事試作場とあっさぶ市街地の成り立ち

現在の厚沢部町市街地は、かつての檜山農事試作場跡地に広がっています。この試作場で行われた馬鈴薯の栽培試験の結果、メークインが檜山の推奨品種となり、現在の厚沢部農業の中心とも言えるメークイン栽培につながっていきます。 昭和37年の農事試作場閉鎖…