厚沢部文化遺産調査プロジェクト

北海道厚沢部町の文化遺産や歴史、自然について紹介します。

科学の力が解き明かす館城のすがた〜金属探査編〜

この記事は、2022年3月26日に開催した「あっさぶ郷土学講座」の配布資料をもとにしています。令和3年8月に行った、館城跡の礎石建物の周辺で金属探査やレーダー探査、磁気探査などの地下探査のうち、金属探査について記述します。

探査領域は藩主の住宅を含む館城の重要な建物群と推測され、過去の調査では釘や鎹等の金属製品が出土しています。金属反応の分布やレーダー探査、磁気探査の結果から、これまで知られていなかった館城御殿の姿が浮かび上がってきました。

館城と松前城

松前藩明治元年(1868)に、長く本拠地としてきた松前城から移転し、内陸の館村に新しい城郭を築きました。この背景には、安政2年(1855)の箱館開港や、同6年の蝦夷地「六藩分知」がありました。本州と蝦夷地の交易に依存する松前藩の経済が成り立たなくなり、海に面した松前ではなく、水田稲作に適した館村に新たな根拠地を築いたと考えられます。

海沿いの松前城と内陸の館城

正議隊のクーデータと箱館戦争

正議隊のクーデター

明治元年、7月28日、「正議隊」と名乗る藩士たちが松前城に登城し、藩主徳広に「正議隊建白書」提出しました。徳広に対する正議隊の説得は厳しく、長時間の拘束の結果、徳広は建白書を受け入れました。こうして藩主の後ろ盾を得た正議隊は、松前勘解由らの追討を開始しますが、当初は兵力不足で勘解由らを討つことはできませんでした。8月1日に江差奉行の尾見雄三が江差在中の藩士を率いて到着したため、正議隊は形勢を立て直すことができ、8月3日の松前勘解由切腹から約1ヶ月にわたって重臣らの粛清を行いました。館城の築城は、一連の粛清が終了した9月1日からはじめられました。

築城願書

明治元年11月7日、松前藩は新政府に対して館城の築城願書を提出します。この時、すでに館城の築城は開始されていますが、書面による築城許可を求めたものです。願書の中で述べられている館城築城理由の概略は次のとおりです。 1. 近年は大きな戦闘艦が来航し、松前城も危険にさらされるようになった。 2. 厚沢部の館村は川と山に囲まれた天然の要害である。 3. 拓地勧農も将来は進むことが見込まれる。 4. 箱館奉行所へも陸路で近く、箱館で万が一のことがあれば、すぐに駆けつけることができる。

館城築城工事

  • 9月2日  館村へ遠眼鏡を送る
  • 9月14日  大工40人、木挽10人が館村へ
  • 9月21日  福山の大工棟梁孝次郎以下、大工28名が江差に到着
  • 9月23日  9月12日以降の人足延べ人数1,525人工に達する。大工40人、木挽10人が館村へ出立
  • 9月21日  福山の大工棟梁孝次郎以下、大工28名が江差に到着
  • 9月23日  9月12日以降の人足延べ人数1,525人工に達する
  • 10月14日 建具師3人館村へ向かう
  • 10月16日 間似合、唐紙、玉子が館村へ
  • 10月24日 棟上げの儀
  • 10月26日 三上超順、鈴木興之丞が木間内へ出張

攻め寄せる旧幕府軍

明治元年10月21日に森町鷲ノ木に上陸した旧幕府軍は、七飯峠下や大野村で待ち受ける新政府軍を撃破し、10月26日に五稜郭に入城します。これにより、蝦夷地南部の新政府勢力は松前藩を除いて一掃されますが、松前藩はかたくなに抗戦の意志を見せたため、旧幕府軍は海沿いと内陸の2方向に部隊を派遣しました。11月5日に松前城が落城し、松前藩の拠点は江差と館城が残されるのみとなりました。箱館五稜郭から鶉山道を進む松岡四郎次郎率いる幕府一聯隊は、11月12日に稲倉石を突破し、11月15日に館城攻撃を行います。館城はわずか1日の戦闘で落城します。同日、江差が開陽丸から上陸した旧幕府軍に占領されると、松前藩の組織的抵抗は終了しました。

明治元年箱館戦争主要戦場と松前藩戦没者

落城後の館城

落城後の館城は、再建されることなく現在にいたります。明治21年に館村鷲の巣(現厚沢部町字富里)に入植した二木小児郎は、門柱の焼け跡や礎石が散乱する様子を書き残しています。二木が書き残した館城は次のような情景です。

  • 80間四方の堀の跡
  • 古井戸18〜19箇所
  • 正面表門の位置には門柱の焼け残り2基
  • 内庭には家屋建築物の礎石数百個散乱

館城御殿と築城図

過去の調査によって館城には礎石が良好に残っていることが確かめられています。また、厚沢部町郷土資料館所蔵の『館築城圖』 *1 には、館城の御殿と思われる建物の平面図が描かれており、現地に残る礎石と一部はよく一致することもわかっています。

増田家文書『館築城圖』(厚沢部町郷土資料館所蔵写本)

金属探査

調査の目的

『館築城圖』に描かれた建物がどの程度完成していたのか。それぞれの部分がどのような機能をもっていたのかを推測するために、残存する金属製品の分布把握を目的として、金属探査を実施しました。

調査の方法

金属探査に使用した機材はホビー用の金属探知機(商品名「GC-1072 Metal Detector」)です(約7,000円の廉価機種)。事前のテストでは、ミニエー銃弾、硬貨(1円、10円、100円)には距離10cm以内で的確に反応することを確かめました。

金属探査の実施状況

金属反応の分布

調査区の北東部、南東部、南西部の3箇所に金属反応の集中域が確認できます *2厚沢部町教育委員会の平成21年の調査により、探査区域には2棟の建物が存在すると推定されています。2つの建物に挟まれた領域は金属反応の分布が少ないことがわかります。また、東側建物の南北に高密度の反応分布があります。平成21年度の礎石調査でも東側建物周辺で多くの遺物が出土しており、過去の調査結果とも矛盾しません。

金属反応とカーネル密度推定による等密度線

金属反応のポイントパターン解析

金属反応の分布はいくつかの密集区域がみられます。

ポイントの密集が偶然に生じるパターンではなく、何らかの構造を反映し、関連をもつことを表現するのに利用されるのがK関数と呼ばれる統計量です *3

エンベローププロットは、K関数を1000回算出するシミュレーションを行った場合の結果と、実際の値を比較したものです *4 。 半径約1.5m以上で、実測値>理論値となっており、何らかの要因(たとえば過去に存在した建築物)によって、偶然とは言えない金属反応の密集区域が存在することを示します。半径が10mを超えると分散傾向に転じ、半径約13m以上で実測値<理論値となり、明確な分散傾向を示します。これは、金属反応同士が接近せず、離れて分布する傾向があることを意味します。つまり、金属反応の分布が複数の密集区域に分かれることを裏付けています。

金属反応分布のエンベローププロット

金属反応と建物

金属反応の集中は建物の北東部と南西部、南東部にみられます。北東部は、『館築城圖』における「御末女中部屋」、「御乳御抱部屋」、「御次」など、藩主家族に仕える女性たちの空間です。 南東部は「御寝所御居間」、「御仏間」、「内縁」など藩主の日常生活空間に相当します。同様に南西部は「御近習頭」、「下御台子間」、「奥御納戸」など、中〜上級藩士らが日中所在する空間です。

金属反応の実態は、釘・鎹などの建築資材、什器類に付属する金具、刃物などの道具類と考えられます。したがって、その分布は建物の完成度や内部空間の整備度合いを反映していると考えられます。

金属反応分布と『館築城圖』

奥御殿女中部屋付近の金属反応

奥御殿藩主居室付近の金属反応

常御殿納戸付近の金属反応

まとめ

金属反応は3つの大きな密集区域があることがわかりました。『館築城圖』を参考にすると、それは、1)藩主家族に仕える女性の活動空間、2)藩主の生活空間、3)中〜上級藩士らの日中の活動空間です。こうした領域に金属反応の密集がみられることは、これらの領域が館城築城において優先的に仕上げられ、什器類の搬入が行われた可能性を示しています。こうした仮説を検証するためには、今後の発掘調査の成果を待つ必要があります。

地下探査の魅力

発掘調査は「何が」「どこに」あるのかを突き止めるもっとも確実な方法です。「動かぬ証拠」を見つけ出す強力な手法ですが、貴重な遺跡の破壊をもたらすものでもあります。その性質上、発掘調査は1度きりしかできません。同じ発掘調査を2回行うことや発掘調査成果を後日検証することは極めて困難です。

地下探査は直接対象を観察したり、触れたりすることができません。探査結果を「動かぬ証拠」と言い切ることは難しいものです。しかし、条件を変えて何度も実施したり、後日、その成果を検証することが可能です。「検証が可能である」ということは、科学にとって非常に大切なことです。地下探査は検証する余地が残されているという点で、考古学の科学的なアプローチには不可欠な作業です。

地下探査の魅力は次の3点です。 1. 目には見えないものを見ることができる 2. 遺跡を壊さず、地下の様子を見ることができる 3. 何度でもやり直せる

これからの遺跡調査は、まず地下探査によって遺跡を壊さずに多くの情報を収集し、それらの情報を元にもっとも効率的な発掘調査方法を定め、地下探査の結果を発掘調査によって検証することが主流になっていくでしょう。そのような調査手法をとることによって、遺跡の破壊を最小限にとどめ、遺跡についてより多くの情報を集めることができるようになります。破壊調査である発掘調査と、非破壊調査である地下探査のバランスが、今後の考古学研究には求められていくと考えられます。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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*1:『館築城圖』は江差の豪商増田家に残された文書類(増田家文書)に含まれる館城の奥御殿及び常御殿を描いたと思われる平面図である。2022年現在、原本は確認できず、厚沢部町郷土資料館所蔵の写本を使用した。描かれた平面図は、現地の礎石配置とは部分的によく一致するが、図面全体として現地の礎石配置とは一致しない。

*2:金属反応のカーネル密度推定にはGRASS GIS version 7.8.2 のv.kernelコマンドを使用した。radius=7mである。作成した密度ラスタからr.contourコマンドにより、0.2ステップの等密度線を生成した。

*3:K関数により算出されるK統計量は、任意の金属反応の周辺に完全空間乱数(complete spatial randomness)と呼ばれる状況を生成し、当該完全空間乱数を生成する半径における理論的なK統計量と実測されるK統計量の差を比較し、実測値>理論値ならば、その半径距離内では、偶然とはみなせないポイントの集積が生じている可能性が高いと判断する。逆に実測値<理論値ならば、ポイントは他のポイントを避けるように分布する可能性が高いと判断する。完全空間乱数を発生させる半径を徐々に増加させることで、領域の面積に応じた空間集積の状況を明らかにすることができる。

*4:ポイントパターン解析にはオープンソースの統計解析環境R version 4.1.1を使用した。K統計量の算出及びシミュレーションは、Rの空間解析パッケージであるspatstat version 2.2を使用した。エンベローププロットの作成はggplot2 version 3.3.5を使用した。