厚沢部町字新栄の旧字名は大字館村「館ノ下」、「館ノ沢」、「館ノ岱」、「館越」、「ロクロ場」です。これらの地名は、ともに厚沢部の歴史にに関わる重要な意味があります。
館地名の由来
厚沢部町の館地域には、明治元年(1868)、松前藩によって「館城」という城郭が築かれました。「館城」は、「やかたじろ」という城郭用語があるため、「やかたのようなお城」と誤解されることもありますが、松前+城=松前城と同じく、地名+城で生じた名称です。なお、地元の方は「たてしろ」と呼称することが多いのですが、これは重箱読みを嫌ったものと思われます。公式な読み方は「たてじょう」です。回りくどくなりましたが、もともと「館(たて)」という地名が館城築城以前にあったということです。
館地名の初出
館地名の初出は「元禄13年檜山絵図」です。ヒノキアスナロ山の現況を記した絵図で、ヒノキアスナロ伐採に関わる集落や沢名が記載されています。本絵図は原本が所在不明で『続上ノ国村史』掲載図によってその内容を知ることができます。
新栄にあった中世館跡
新栄には中世館跡があったことが知られています。『北海道旧纂図絵』(函館市中央図書館所蔵)には「北海道十七ケ館第十四 国分館」の項があります。引用します。
桧山郡館村より午の方三町隔て古名厚沢部といふ小丘にして風景 文安四丁卯年四月館権太郎源頼重(村上政儀の臣なり)江三郎義盛(村上政儀の臣 館頼重舎弟也、義盛長禄三己卯年夏六月二十六日夷賊のため上国村川原出をいて戦死) 二世江口民部焏(幼小太郎 義顕永正八辛未年夏四月十六日亀田郡志苔村にをいて蝦夷賊流矢の為戦死) 三世權顕幼小三郎顕輝(初め伯父館頼重跡継後干舎兄義顕の養継と成る)永正十癸酉年夏六月二十七日顕輝村上三河守政義相原周防守政胤 倶に松前郡大館蝦夷賊のために兵卒まで以上二十余人戦死後干此の国分館權頭輝顕跡目女留るに依て廃滅子孫は桧山郡江差港漁富長者江口重右衛門といふ
要点は次のとおりです。
- 館村から「午の方三町」のところに小丘陵があり、そこが「国分館」の場所だ。
- 文安4年(1447)に村上政儀の家来である館権太郎源頼重と、その弟の江三郎義盛が初代の館主である。
- 義盛は長禄3年(1459)に夷賊のため上ノ国村川原出にて戦死
- 二世は江口民部丞で、永正8年(1511)に亀田郡志苔村にて戦死
- 三世顕輝は永正10年(1513)に村上政義や相原周防守とともに松前大館にて戦死
- 顕輝には跡継ぎがなく、女子ばかりだったため廃嫡となった
- 子孫は江差の江口重右衛門という
国分館は15世紀中頃に築城され、館主は3代にわたりましたが、16世紀初頭の戦乱で館主が失われたため廃城となったと読み取ることができます。また、「館村より午の方三町」という位置は、当時の館村(現南館町)から南へ約300mですから、辻褄があいません。可能性として、現在の新栄集落から南方300mということなのかもしれません。
松浦武四郎の記録による中世館跡
松浦武四郎が厚沢部を訪れた弘化3年(1846)と安政3年(1856)の記録には、館村に館主のような豪族がすんでいたことが伝承として残されていたことを書き記しています。以下は弘化3年の『再航蝦夷日誌』(1970 吉田武三校註『三航蝦夷日誌』上巻,吉川弘文館)の記載です。
館村 むかし此の村に酋長壱人居住せし由申し伝ふ
「酋長」が館村に住んでいたとの伝承があったことがわかります。
安政3年(1864)の『廻浦日記』(2001 高倉新一郎『<安政三年>竹四郎廻浦日記』上,北海道出版企画センター,2001復刻版)では次のような記載があります。
又左りの方に行や此辺土地余程開け畑多く、人家も沢山有るよし。惣名を館と云と。むかし古城が有しに依て号るとかや。
館村の風景として土地が開け、畑や人家も多いことが記され、村名の「館」とは古い城があったために名づけられた、と述べています。
埋蔵文化財包蔵地国分館跡
昭和45年に行われた厚沢部町の埋蔵文化財包蔵地の所在調査では、新栄にある国分館跡の踏査が行われ、陶器片が採集されています。現在、国分館跡は埋蔵文化財包蔵地として包蔵地台帳に搭載されています(C-03-16)。同時にこの場所は、松前藩が安政年間に設置した開梱役所に荷揚げをした「ロクロ場」であるという伝承が残されています。
国分館跡、「ロクロ場」は厚沢部川に面した小丘陵です。
「館ノ下」、「館ノ沢」、「館ノ岱」、「館越」そして「ロクロ場」
昭和35年に行われた字名改正の対照表(『檜山郡厚沢部村字名改正調書』)から館地名に関わる「館ノ下」、「館ノ沢」、「館ノ岱」、「館越」の範囲と「ロクロ場」の範囲を拾いました。
国分館跡を取り囲むように「館ノ下」が分布し、国分館跡の脇を流れる館川に沿って「館ノ沢」が広がります。国分館跡北側は字鶉へ通じていますが、そこには「館越」があります。「館ノ沢」と厚沢部川に挟まれた台地(「新栄」という表記があるところ)は「館ノ岱」です。国分館跡の周辺に館地名が分布していることがわかります。なお、国分館跡のある小丘陵の旧字名は「丸山」です。
国分館跡の南東側には「ロクロ場」地名が広がります。
ロクロ場
「ロクロ場」は、安政年間に館村に設置されたとされる開墾役所に物資を荷揚げした場所と伝えられています。ロクロ場の跡とされているのは国分館跡と同じ小丘陵で、東側は道道 29 号によって切り崩されていますが、かつては開墾役所のある段丘面と尾根で繋がっていたと推測されます。
2019年の調査では、厚沢部川から丘陵上へ上がる古い道跡が見つかりました。
丘陵頂部は昭和40年代に農地造成されましたが(地権者らの聞き取りによる)、この道は農地造成に伴い丘陵頂部では埋められています。道の構築年代ははっきりしませんが、昭和13年生まれの地権者が幼少の時分から道跡があったと証言しています。また、子ども時代に付近を遊び場所としていた地域住民からは「改善センターへ上がる道を少し上がったところの右手の藪の中に石のお堂のようなものや墓石のようなもの、茶碗のかけらが落ちていた。」との証言を得ています。私は、この道は厚沢部川から「ロクロ場」への荷揚げに伴うものと考えています。
新栄に残る「館」地名とロクロ場
新栄の館地名とロクロ場は、もともと同じ小丘陵を指していたものと考えられます。中世の館跡と幕末の荷上場が同じ場所だったというのは偶然ではなく、ともに必要な地理的要件を満たしていたと考えられます。例えば、厚沢部川を利用した水運の便などがそうした地理的要件の一つでしょう。ロクロ場は厚沢部川を遡上してきた川舟が荷揚げした場所と伝えられていますから、荷揚げに適した場所だったのでしょう。開墾役所のある台地と尾根でつながっていたことも重要だったと考えられます。こうした地形的要件が中世館跡と幕末の荷上場の共通の立地要件だった可能性があります。
国分館跡もロクロ場もその実態はわからないことが多いのですが、館地名発祥の地として重要な場所であることは間違いありません。調査を続けて、いずれ実態を解明したいものです。
2022年5月15日訂正 図中の文字を修正:開梱役所→開墾役所
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