厚沢部文化遺産調査プロジェクト

北海道厚沢部町の文化遺産や歴史、自然について紹介します。

厚沢部の入口「峠下」

厚沢部町字峠下は函館から江差へ向かう国道227号の厚沢部側の入口にあたります。鶉川のもっとも奥にあった集落が峠下でした。「峠下」という地名は日本全国の至るところにあり、近隣では「箱館戦争勃発の地」として知られる七飯町峠下があります。

峠下の旧字名

峠下は昭和35年の字名改正以前は大字鶉村に属していました。現在の峠下の領域には「峠下」、「稲倉石」、「三角」、「大丁澤口」、「大野澤口」、「麓」の旧字名がありました。もっとも大きな面積を占めるのが、字名改正で字名となった「峠下」でした。

字峠下の旧字名

鶉ダムに沈んだ古戦場稲倉石

稲倉石は、現在の鶉ダムの右岸側にあり、ほとんどすべての領域が鶉ダムの築堤とダム湖の下になっています。

旧字名「稲倉石」

現在のダム築堤の下に、かつては稲倉石橋がありました。

明治元年箱館戦争時には松前藩がここに陣地を築いて館城攻略に向かった旧幕府軍に抵抗しました(江差町史編纂室 1974「戦争御届出書」『松前町史 史料編』第1巻, 松前町, pp. 319-342)。昭和48年に撮影された稲倉石橋の写真には、岩山の下に稲倉石橋があるのがわかります。

昭和48年撮影稲倉石橋

松前藩は稲倉石橋のあたりに柵を設け、大砲を備えていましたが、旧幕府軍は岩山をよじ登り側面や背面から攻撃したため、松前藩群は支えきれず撤退してしまいました(大鳥圭介 1998「南柯紀行」『南柯紀行・北国戦争概略衝鋒隊之記』新人物往来社, pp. 8-158)。明治19年の『鶉山道図鑑』にみられるように、稲倉石付近は岩山が左右からせり出す急峻な地形です。松前藩は狭い谷底を封鎖してしまえば簡単には突破されないと考えていたようですが、最新式の散開戦闘技術を身につけていた旧幕府軍の攻撃にひとたまりもありませんでした。

「第三拾 字稲倉石」『鶉山道図鑑』(函館市中央図書館所蔵)

なお、旧幕府軍が行った戦闘方法はライフル銃の性能を活かした散開戦闘で、山がちな日本では特に有効だったようです。フリードリヒ・エンゲルスは、散開戦闘の出現により、山岳は軍事上の障壁でなくなってしまったと述べています(フリードリヒ・エンゲルス 1964「昔と今の山岳戦」『マルクス=エンゲルス全集』第12巻, 大月書店, pp. 106-112)。松前藩も険しい山地を頼みに防御を試みましたが、最新の戦闘技術によってもろくも敗れ去ったのでした。

なお、「稲倉石」の語源はアイヌ語の「インカルシ=inkar-ushi-i=眺める・いつもする・処」と考えています。鶉ダムからは鶉川流域が一望でき、「インカルシ」にふさわしい景観です。

鶉ダムから一望できる鶉川の平野

麓長吉に由来する旧字名「麓」

鶉川の右岸にある「麓」は、鶉山道の整備に功績のあった麓長吉にちなんでつけられました。

旧字名「麓」

「麓」は麓長吉が最初に架けたといわれる「麓橋」に由来していると考えられます。 この橋は麓長吉が最初に架けた橋といわれています(厚沢部町編集委員会 1981『桜鳥ー厚沢部町の歩みー』p471)。

国道227号の中山トンネル手前の登坂車線の右側に旧道が並行していますが、麓橋は登坂車線の起点付近に現在もその姿を見ることができます。もちろん、麓長吉が架けたとされる橋とは別物です。下の写真は昭和48年撮影の麓橋と国道227号です。

昭和48年撮影 国道227号と麓橋

明治19年の鶉山道開削工事の様子を記録した『鶉山道図鑑』には麓橋付近の描写もみられます。図の中央上の方にみえる石積みは架橋工事の基礎と思われるものです。長吉が架けた麓橋もこの近くにあったかもしれません。

「第廿六 檜山郡峠下」『鶉山道図鑑』(函館市中央図書館所蔵)



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