北海道厚沢部町には「字鶉」と「鶉町」があります。全国的も珍しい「鶉」地名が町内に2箇所もあることになります。
現在、字鶉は「本村」と呼ばれるように、昭和35年字名改正以前に「鶉」といえば字鶉のことを指すものでした。鶉地名については過去に「鶉マニアック〜鶉地名の謎」や「鶉マニアック〜鶉村は鳥のウズラではないんじゃないか?」という記事をLocalwikiに書いています。
旧字名「大丁岱」
今でも年配の方は、鶉町周辺を「大丁岱」と呼びます。昭和35年以前の字名改正以前の鶉町周辺は「大字鶉村字大丁岱」でした。「檜山郡厚沢部村字名地番変更調書」から大丁岱の領域を拾ったのが下記の図です。現在の字旭丘、字相生、鶉町にまたがる広い領域です。
「大丁岱」と麓長吉
「大丁岱」の「大丁」は屋号です。厚沢部町鶉町近辺には「東谷」さんという家が何軒かありますが、「大丁」は東谷さんの屋号です。東谷の家は、安政年間に江差の鈴鹿甚右衛門とともに鶉山道開削に尽力した麓長吉の別家と言われています。長吉は養子である巳之吉を分家させ、東谷姓を名乗らせたといいます(『厚沢部町史桜鳥』第2巻,p469)。分家の際に、長吉は所有地一部を巳之吉へ譲り渡したようですが、それらの土地が後に屋号にちなんだ「大丁岱」となったと思われます。
明治19年に描かれた『鶉山道図鑑』には当時の大丁岱付近と思われる描写がありますが、畑も人家も見えません。大丁岱が賑わってくるのは、鶉山道が開通し、函館〜江差間の陸上交通が活発に行われるようになってからのことです。ちなみに、大正12年には、厚沢部村の役所を大字鶉村に移転する建議書が、村会議員や村の有志から提出される事件が持ち上がったほど、大丁岱方面の開発は急速に進んでいきました。