厚沢部文化遺産調査プロジェクト

北海道厚沢部町の文化遺産や歴史、自然について紹介します。

大谷農場と寺田省帰〜木間内と農場開放〜

厚沢部町字木間内はアイヌ語の「キムン・オ・ナイ」(山奥に・ある・川)が語源と考えられます。現在の社の山川がかつては「キマナイ」と呼ばれており、これが木間内の語源と考えられます。この経緯は字名に昇格した「社の山」地名で詳述しています。

鶉川の作り出した地形

鶉川は河岸段丘が発達しており3段の段丘堆積物があるとされています(工業技術院地質調査所1975: p46)。木間内周辺では右岸にt2段丘堆積物が、左岸にt3・t2堆積物が分布します。地形図では「字社の山」との境界にt3とt2の境界段丘崖が明瞭に確認できます。

木間内周辺地形図

木間内周辺地質図(地質調査所1975)

木間内と大谷農場

木間内は本願寺大谷派が農場を開いたことで知られる。須藤隆仙によると函館監獄の教誨師和田義英が年少の感化院生を僻地開墾に従事させるため、鶉村木間内に30万坪(約100ha)の土地貸付を受け、明治23年から北海道慈善会として開墾事業に着手したといいます。慈善会の活動は地元との関係もふるわずうまくいかなかったようで、明治26年には慈善会を解散し、大谷農場として運営が続けられたようです(須藤1986)。

明治二十 一年函館監獄署の大谷派教誨師和田義英は、典獄とはかって自宅を院舎に私費で免囚年少者の感化院をつくった。初め有志の寄付で運営し、院生を小細工品や製網に従事させたが、資金が困難になり、逃亡者なども出たので僻地開墾に転向することを考え 、鶉村(檜山郡厚沢部町)に三〇万坪の貸付をうけ、同二十三年五人の院生を移し北海道慈善会(大谷派営) とした。だが村人が院生をきらうなどの難事にあい、同二十六年解散、そのご「大谷農場」として純然たる小作農場にしたが、大谷派は明治末年売却した。(須藤1986)

下の写真は大谷農場時代の木間内の様子です。手前に鶉川がながれ、画面右手が下流と思われます。奥の建物は北大図書館のキャプションによると奥の建物は「事務所及び倉庫」です。手前のほ場では田植えが行われています。

鶉村大谷農場事務所付近の景(北海道大学附属図書館所蔵)

寺田農場と木間内

大谷農場の経営は苦しかったようで、明治35年にはさらに56万7千坪の未開地貸し下げを受け、これに伴い移住者の増加があり一時は収穫高も倍増したとされますが、大正2年には冷害のため大凶作となったようです(寺田農場開放記念誌実行委員会1983: p8)。不振が続いた大谷農場は大正8年に小樽の寺田省帰に売却され「寺田農場」となりました(前掲)。

寺田農場では大正11年から造田事業に着手し、昭和2年には寺田農場の小作農が中心となり木間内灌漑組合を結成し、98町歩の造田に成功しました(寺田農場開放記念誌実行委員会1983: p9)。

寺田農場の農場開放

寺田農場は昭和9年に小作農49名に対して約500haに及ぶ農地の払い下げを行いました。

ことの発端は、木間内での小学校建設に伴う用地の取得にありました。当時の木間内の土地はほぼ全て寺田農場の所有地であり、農民が自由になる土地がなかったことから、自作農創設の動きが高まったようです。東崎政男(後の初代公選村長)や農場管理人の村屋久蔵が寺田省帰に働きかけ、自作農創設の承諾を寺田から得ることに成功しました。

また、小学校建設用地は寺田から町に寄付されることとなり、約5haの土地が学校用地として町に寄贈されました。これは昭和13年に設置された木間内尋常小学校です。現在でも旧木間内小学校の敷地の一角に「開放記念碑」が置かれています。

開放記念碑

引用文献

工業技術院地質調査所 1975『館地域の地質 地域地質研究報告5万分の1図幅』, p46 須藤隆仙 1986「北海道における仏教福祉の歴史」『仏教福祉』12, pp. 70-92 寺田農場開放記念誌実行委員会編 1983『寺田農場開放50周年記念誌』

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