厚沢部文化遺産調査プロジェクト

北海道厚沢部町の文化遺産や歴史、自然について紹介します。

厚沢部町「土橋(つちはし)」の語源

土橋村の草分けとヒノキアスナロ

北海道厚沢部町字富栄の旧大字名は土橋村です。延宝6年(1678)に喜三郎が津軽から移住したのが草分けと言われています(『青江理事官諮問回答書』)。延宝6年は『福山秘府年歴部』の延宝6年の項に「この歳初めて、山人をして西部阿津左不山中の檜樹を伐らしむ」とあるように、厚沢部山でのヒノキアスナロ伐採が始まったとされています(1991『新撰北海道史』第5巻,復刻版,p38)。辻褄が合いすぎているようですが、土橋村の始まりが、ヒノキアスナロ伐採と関連をもっていることを含意して伝えられてきたことを示していると言えるでしょう。土橋村はヒノキアスナロの分布北限に位置します。

土橋村の位置とヒノキアスナロの分布

エゾ村と土橋村

文献に土橋村が現れるのは意外に遅く、文化3年の蝦夷地の剣舞録である『遠山村垣西蝦夷日記』(国立国会図書館所蔵)の厚沢部川流域の見聞録です。俄野村、安野呂村、ウグイ川村などとともに「土橋村」の記載があります。

土橋村付近では緑町にあったと考えられる「エゾ村」の記録がみられます。寛文10年(1670)に蝦夷地を調査した津軽藩の記録、『津軽一統誌 巻第十』(1969『新北海道史』第7巻史料1,p191)に「あっさぶ村 川有 しやも狄共に入交り」が、文献における厚沢部の初出ですが、後の「エゾ村」の原風景が記録されています。

『福山秘府諸社年譜並境内堂社部(巻12)』(前掲,p115)には「アツサフ 蝦夷村」に稲荷社が建立されていることが記されます。この蝦夷村は松浦武四郎安政3年の見聞を記した『廻浦日記』(2001『竹四郎廻浦日記』上,復刻版,pp-238-239)でハタナイサワ近くにあったと記録される「蝦夷村」と同じ集落を指すのかもしれません。

松浦武四郎『廻浦日記』にみる蝦夷村と土橋村

『廻浦日記』の記述は次のとおりです。

土橋村 人家四十軒斗彼方此方に散落したり。村内鎮守八幡宮、祭礼八月十五日。同じく観音寺持也。是よりまた上がるに、右の方山に沿て、 ハタナイサワ 蝦夷村 等こへて、川岸に同じく傍て上がる事七八丁にして、 大川

記述順は、川下から川上へと移動していきます。すなわち、土橋村を過ぎて右の山手に「ハタナイサワ」と「蝦夷村」が現れ、「七八丁」で「大川」に達するとされます。この場合の「七八丁」は土橋村からの距離と思われます。

「ハタナイサワ」はレクの森を流れる川が畑内川として知られています。畑内川を越えた厚沢部川の上流側(畑内川の右岸)に蝦夷村があり、さらに進むと「大川」すなわち、厚沢部川本流に達すると、武四郎は記述しています。

土橋村の位置とハタナイサワ、エゾ村

なお、土橋村の村内鎮守は八幡宮との記載がありますが、現在の富栄集落の氏神神明神社(祭神天照大神)です。

字富栄神明神社

「土橋」の語源

土橋村の語源として注目すべきは、かつて土橋村は「ドンバ」と呼ばれていた可能性を示唆する文献があります。渋谷道夫が1965年に行った調査の中で次のような記載があります(渋谷道夫「厚沢部川流域の鹿子踊と杵振り舞について」『日本民俗学会報』第38号,日本民俗学会,pp.41-58)。

厚沢部川流域では、土橋と柳崎が土場であったため「ドンバの鹿子」と呼んでいるが、他の部落では、旧部落名をつけた「安野呂の鹿子こ踊」というように呼んでいる (p42)

江差町字柳崎が「どんば」と呼ばれていたことはよく知られていますが、土橋が「どんば」と称されていたことはあまり記録に残されていません。

「トンバのししこおどり」という表現も紹介されています(北海道教育委員会1987『北海道の民俗芸能』p46)。

結論を急ぐことは慎まなければなりませんが、「土橋」の語源は「どば(土場)」だった可能性が考えられます。 「どば」→「土橋(どばし)」→「つちはし」のような漢字の読みを媒介に転訛した可能性を考えておきたいと思います。 似たような例として「つきさっぷ」→「月寒」→「つきさむ」があります。 あまり釈然としませんが、土橋の語源に関わる仮説の一つとして提示しておきたいと思います。

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