厚沢部文化遺産調査プロジェクト

北海道厚沢部町の文化遺産や歴史、自然について紹介します。

『鶉山道図鑑』を読む

『鶉山道図鑑』とは

『鶉山道図鑑』は明治19年に成立した北海道庁が最初に手がけた大規模な公共工事の記録です。鶉山道の工事は明治18年8月に着工され、19年に完成しました。『鶉山道図鑑』は、本工事の現場視察に北海道長官・永山武工事北海道長官永山武四郎と函館県令時任為基が訪れた際に、随行した沢田雪渓に命じて作成させた工事記録の図画です。 沢田雪渓は函館県時代に函館に招かれた画工で、明治18年時点で函館県博物場御用掛として勤務していたようです。市立函館博物館には沢田雪渓のアイヌ絵や鳥類画などが所蔵されています(1981『SARANIP』市立函館博物館報No20,p77)。

『鶉山道図鑑』は北斗市一ノ渡の十字路を「壱之図」とし、「田沢野」から江差方向を望む「号外」までを45葉( 図番号は1〜38、号外ですが、甲・乙などが付された同一図番号の画像があるため番号と画数は一致しない)の絵図に描写し、画帳形式とした石版画集です。 視察行程における注目すべき地点を選定して描かれたと思われ、難所である二股周辺や中山峠付近、厚沢部町上山周辺は多くの描写があります。

鶉山道とは

「鶉山道」は近代初期の北海道における2大都市である江差と函館を結ぶ重要な交通路でした。安政元年の箱館開港にともない、陸路による江差箱館の交通路開拓の需要が高まりました。

最初に鶉山道の開拓を手がけたのは江差商人の鈴鹿甚右衛門とされ、安政5年に800両を投じて鶉山道の開拓を行ったと言われています。 『村垣公務日記』(函館市中央図書館所蔵)によると「松前伊豆守領分、江差町甚右衛門代新兵衛。芦沢部より大野越新道、自力を以て切開致度段、願之通奇特の事に付、早々可取掛旨申渡。」とあり、箱館奉行所にあてて厚沢部から大野へ至る道路を自力により開削したい旨を申し出たので、奇特な願い出であることから早々に取り掛かるように申し渡した、としています。また、この時に開削された道路は、毛無山を越える大野川右岸のルートだったことが『鶉山道図』(函館市中央図書館所蔵,『厚沢部町史桜鳥』第2巻,p441)からわかります。

明治2年箱館戦争時点で鶉山道は大野川右岸を通る新道があったことが記録されており、鈴鹿甚右衛門が開削した道路とは別のルートも存在したようです。 二股口を守備した衝鋒隊今井信郎の『衝鋒隊戦争略記』(須藤隆仙編著1988『箱館戦争史料集』新人物往来社,p82)には「時に今井信郎中隊を率、峠新道に塁を築て有しか、稲倉間道より競進と聞、中隊を一ノ渡村に転陣し、小隊を二股に進」とあり、もともと、新道である大野川右岸(南岸)に陣地を設けていたが、新政府軍が旧道を進むとの情報に接し、対岸の二股に転陣したことがわかります。このことから、幕末には鶉山道には、少なくとも新旧2本のルートがあったことがうかがえます。

明治3年には本願寺大谷派が鶉山道の整備を行ったと言われます。 東本願寺明治2年に北海道の道路事情改善のための協力の願い出を政府に提出し、翌明治3年に木間内の麓長吉に請け負わせて工事を行っています。『大谷派本願寺由来』によると、俄虫から鶉峠の脇まで、鶉入り口から稲倉石峠を経て大野毛無峠まで、大野一ノ渡村までの3工区に分けて実施されたようです。 以上のように、安政年間以降、何度か鶉山道の整備が行われたことが知られています。

明治19年に発足した北海道庁は最初の公共工事として鶉山道の抜本的な整備を手がけました。馬車などによる大量の陸上輸送を行うためには、近代的な基準による道路開削が必要だったと考えられます。

『鶉山道図鑑』の描写地点

『鶉山道図鑑』の描画は、工事状況の見るべき点や新旧道路の対比に関心をもって描かれていることから、道路延長全体を均等に描いてはいません。描画が集中するのは、主に難所・難工事として知られる場所でした。北斗市二股周辺、日本海と太平洋の分水嶺にあたる中山峠、険しい岩山に挟まれた稲倉石(現鶉ダム)周辺、「発破道路」と呼ばれた上山周辺です。

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鶉山道全体と『鶉山道』描写位置

鶉山道の大野側は二股川付近までは大野川の氾濫原をとおるため比較的平坦ですが、二股川と大野川の合流点付近から本格的な山道に変わります。二股、大滝、中山と難所が続きます。切土によって道路を敷設し、二股〜大滝間ではいくつもの架橋工事が行われています。旧道と新道の比較のためか、旧道の様子のみを描いた箇所もみられます。

鶉山道工事は大野側から始められたと考えられ、この区間は完成に近い状態の鶉山道が描かれています。

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『鶉山道図鑑』中山峠周辺描画位置

稲倉石(現鶉ダム周辺)を抜けると鶉川に沿って平坦な地形が続きます。この区間の描写は山中に比べて少ないものとなっています。また、未架橋の橋や測点標のみが設置された未着手の道路もみられ、大野側に比して工事の進捗は遅かったことがわかります。

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鶉山道図鑑』鶉村周辺描画位置

鶉村から俄虫村までの間は太鼓山やその周辺の山々と厚沢部川が作り出した急峻な崖面を削って道路を掘削されています。この地域はチャートを主体とする硬質な岩石が基盤をなしていることから、爆薬を使用して硬い岩盤を砕いて工事を進める様子が描かれます。

俄虫村では後の「俄虫大橋」架橋直前の様子が描かれます。架橋以前の俄虫には船渡場があり、旅人は「渡し」を利用して厚沢部川を渡渉していました。「俄虫大橋」の完成により船渡場は廃止されました。なお、俄虫の船渡場は享保13年(1728)に設置され、一人12文の渡し賃だったと言われています(『厚沢部町史桜鳥』,pp.555-556)。

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『鶉山道図鑑』俄虫村周辺描画位置

『鶉山道図鑑』の見どころ

大野一ノ渡

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第壱号 亀田郡一渡村

現在の旧大野町、国道227号と大野市街地の交差点付近です。道路右側に鳥居と学校が見えます。交差点には馬車つなぐ駅亭のような建物がみえます。また、学校横には「旧道」が描かれており、工事中の新道と対比されています。交差点中央に「新道測点標」がみえます。測点標は新道の中央に設置され、画面奥に向けて点々と続いていることがわかります。以後の図画にも必ず新道には測点標が描かれているのを見ることができます。

画面を左右に横切る「函館道」には馬車や人力車もみえます。このような車輪を利用した輸送手段を利用するためには平坦で幅広い道路が不可欠でした。

二股の難所

大野市街地から約10km江差方向へ進むと二股川の難所があります。ここまでは大野川沿いの比較的平坦な地形でしたが、ここから険しい山道となります。この地点は、現在では2車線の登坂車線となっています。大野川支流の二股川の合流点に架橋されている様子がうかがえます。なお、画面右側の尾根は、明治2年土方歳三率いる旧幕府軍が野戦陣地を構築し、新政府軍の攻撃を2度にわたって撃退した二股古戦場です。

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第八号 下二股

上図を二股川上流方面から描いた図です。遠くに二股の橋と「新道」の文字が見えます。ここでは、旧道の様子が主に描写されます。かつては、このような険しい山道を通行しなければならなかったため、馬車や馬などの通行には大きな妨げになっていました。絵師は新道と旧道の対比を通して、山道工事の重要性を強調したかったのでしょう。

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第九号乙 下二股山道

天狗岳と旧道

現在では樹木で覆われてその姿は目立たなくなりましたが、天狗岳は急峻な頂部をもつ特徴的な山岳で、鶉山道の道標となる山でした。ここでも、画面下部の直線的な新道と天狗岳北側をまわる急峻な旧道を対比させて描いています。旧道沿いに「天狗社」と注記の付された社が描かれており、天狗岳が信仰の対象であったこともうかがえます。

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第拾壱号乙 天狗岳旧山道

中山峠

鶉山道工事の全工程の中でも重要な箇所の一つが日本海と太平洋の分水嶺となる中山峠です。峠の頂部は大きく切り開かれています。下図は函館側から描かれており、峠のある尾根の斜面を斜行して峠に達した道路が、峠部分でほぼ直角に屈曲している様子が描かれています。峠を越えた先ではさらに右側(北側)に大きく屈曲し、尾根を斜行して下ります。

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第廿三号 中山峠字三角壱之図

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中山峠字三角壱之図と同アングル(2020年12月6日撮影)

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第廿四号 中山峠字三角貳之図}

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中山峠字三角貳之図と同アングル(2020年12月6日撮影)

稲倉石

現在の鶉ダムの底を鶉山道が通過していました。険しい山道はここで終わりとなり、この先は平坦な道に変わります。現在の鶉ダムのダム湖の中にあたる位置から江差方面を描いています。左側に見える大きな岩山に現在では鶉ダムの堤体が構築されています。

明治元年の館城戦争に先立ち、松前藩はこの場所に陣地を設けて旧幕府軍の攻撃を防ごうとしました。しかし、谷底の狭い道を封鎖した松前藩に対して、旧幕府軍は左右の岩山に散開し、松前藩陣地を包囲するように布陣しました。 三方から攻撃を受けた松前藩は支えきれず、鶉村まで退却を余儀なくされました。

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第三拾号 字稲倉石

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第三拾号 字稲倉石と同一地点(昭和48年9月5日撮影)

木間内

現在の木間内と旭丘の境界付近を描いた図です。ここでは新道が上方の丘陵斜面につくられています。旧道沿いに旅籠屋がみえます。この家は屋号が描かれており、「大○(ダイマル)」と読めます。厚沢部町初代公選村長となった東崎政男氏の実家であることがわかっています。 上方の新道では開削工事が進められ、旧道に設けられた旅籠屋では馬をつないで水や飼葉を与えている様子が描かれています。

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第丗壱号 檜山郡鶉村

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第丗壱号 檜山郡鶉村の同一地点(昭和48年9月5日撮影)

鶉川

新道は描かれず、道路センターを示す測点標のみが見えます。画面右、渕の真上の断崖に測点標が設置されていることも見逃せません。画面奥側が大野方向、左側が江差方向になります。画面右の渕を避け、人足に背負われて早瀬を渡る旅人の姿が描かれています。描写地点は現在の鶉町周辺でしょうか。

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第丗貳号 鶉川之図

小鶉川に架橋する準備が進められています。画面奥では急斜面を削って道路を造成している様子が描かれます。小鶉川と鶉川の合流点と推測しています。

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第丗三号 鶉村之内

字鶉と鶉小学校

字鶉の館地区へ向かう道道との交差点付近です。鶉小学校がみえます。現在の鶉小学校は、この画にみえる鶉小学校の「大丁岱分校」として明治32年に設置され、大正7年に鶉、琢成、隠陵の3校を統合して「鶉尋常小学校」となります。これが現在の鶉小学校へと繋がります。 一方、大正8年に「東館特別教授場」が開校し、後の鶉越小学校(旧清和小学校)へつながっていきます。大正8年校舎には旧鶉小学校の校舎が活用されたとも言われています。いずれにせよ、明治19年時点では字鶉に学校が設置され、鶉地域の中心だった様子を読み取ることができます。

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第丗四号 鶉村之内

上山の難所

字鶉から本町市街地までは鶉川削り出した急な崖が続きます。巨大な岩を迂回して道路が作られている様子がわかります。下図は「ホイド穴」付近を描いたものと考えられます。

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第丗五号 檜山郡鶉村之内

比較的平坦な地形ですが、丘陵裾野を切土盛土によって掘削し、道路を敷設しています。

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第丗六号 俄虫村之内

手前には駅舎が描かれ、画面奥では急な岸壁の掘削工事が進められています。「焼山」と注記のある山の斜面には旧道が見えます。この旧道は、明治元年松前藩主徳広が館城へ入場する際に通った道と言われています。画面右下から馬に乗った人物が現れていることから、旧道は川沿いではなく、一段高い段丘上の山中を通っていたのかもしれません。ここは俄虫村まで数kmの地点にある最後の駅舎だったのでしょう。「ハタゴヤ」の看板が見え、繋がれた厩休憩する人々が見えます。

なお、「焼山」とは現在の太鼓山とその周辺の山々の名称でした。「太鼓山」という名称は、大正年間に厚沢部小学校の安藤市兵衛校長先生が名付けたというのが通説です。それ以前には、「焼山」や「善兵衛山」などと呼ばれていたようです。

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第丗七号甲 檜山郡俄虫村字焼山旧道及岩面眺望之景

いよいよ、急な斜面が迫っています。画面中央では爆薬によって岩盤を破壊している様子が描かれます。爆破された岩の破片が鶉川の水面で飛沫を上げる様子も描写されています。火薬の力で硬い岩盤を砕き、細かくなった岩を人力で排出している様子がわかります。

右側の山は「太鼓山」です。太鼓山は古生代(約5億年前)に深い海のそこで形成されたチャートという硬い岩石が基盤となっています。江戸時代では、硬い岩石の掘削は「矢」と呼ばれるくさび状の道具をいくつも人力で打ち込み、少しずつ割りとっていくやり方が行われていましたが、ここでは「矢」を打ち込む代わりに火薬の力で岩石を打ち割る方法で工事が進められています。

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第丗七号乙 俄虫村字焼山爆裂薬燦テ旧道及岩面眺望之景

厚沢部町本町

険しい山道を越えたところにある、現在の本町市街地から緑町方面を望む地点です。画面右側にわずかに人家がみえますが、それ以外は葦原のようです。厚沢部川と安野呂川の合流点はこれから架橋工事が行われるのでしょう。工事は未着手で、測点標のみが設置されています。

当時「俄虫」と呼ばれた集落は、現在の上里でした。後に「本町」となる鶉山道沿いの一体はまだ人家も少なく、ほとんど無人の土地でした。鶉山道の整備後、ここに市街地が形成されていきます。

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第丗八号 俄虫村大橋架設測点標之図

鶉山道の開削工事によって、箱館江差間の交通量が増えたことにより、本町周辺には店が立ち並ぶようになり、次第に厚沢部の中心街となっていきました。明治19年にはまばらな人家しかなかった本町市街地は、39年後の大正14年には下の写真に見るように立派な町に成長しています。なお、下の写真はは大正14年8月15日に撮影されたことがわかっています。別のアングルから撮影された写真から忠魂碑のお祭りの日であることが明らかになったことで撮影日を特定することができました。日の丸が掲げられ、日傘をさす女性や冷菓を売るお店が見え、約100年前の夏の厚沢部市街地の様子を知ることができる貴重な写真です。

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大正14年8月撮影 厚沢部町本町市街地

鶉山道工事と鶉町の成り立ち

陸上交通が産んだ鶉町

鶉山道は、函館と江差を結ぶ重要な交通路でした。江戸時代には船が動くのは原則として夏(5〜8月頃)であり、冬の輸送は陸路に頼らざるを得ませんでした。安政元年に箱館が開港し、奉行所が設置されると江差箱館を結ぶ陸上交通の必要性が高まりました。江差商人である鈴鹿甚右衛門が私財を投じてまでも道路開削を行ったことは、陸上交通の必要がいかに切実だったかを示しています。

近代に入っても陸上交通の重要性はますます高く、北海道全体で鉄道や道路開削が進みます。明治19年に発足した北海道庁が最初の公共事業として鶉山道の大規模工事に踏み切ったことで、函館と江差の輸送量が急増したと考えられます。鶉山道沿いには駅逓や旅館が整備され、旅客相手の商店も立ち並ぶようになりました。特に、大丁岱(現鶉町)は明治19年時点では人家もまばらでしたが、大正8年には鶉小学校が置かれるほど急成長しました。大正6年に帝国製麻会社檜山製綿工場が鶉に建設されますが、こうした大規模な工場の建設も、鶉山道の改良による輸送量の向上抜きには考えられません。さらに大正12年には厚沢部村会議員らが北海道庁に対して役場庁舎の移転を求める建議書を提出し、役場庁舎を鶉村へ移すよう要請する事件まで発生しています。そのような事件が起こるほど、鶉の町が大きく成長していたと考えられます。

道路とまちの発展

昭和30年代以降、自家用車の所有率が上昇し、平成30年現在の北海道の世帯あたりの自家用車数は0.999台となっています(一般財団法人自動車検査登録情報協会「自動車保有台数」(平成30年3月末現在)、総務省住民基本台帳に基づく人口、人口動態及び世帯数」(平成30年1月1日現在))。 鶉山道も度重なる線形改良がなされており、陸上交通はますます便利になっています。

一方、陸上交通の発達により、他地域での消費や通学など、地域から貨幣と人材流出が進み、厚沢部町は「支出超過」状態となっています。交通網の発達による地域経済の衰退は「ストロー現象」として知られる現象で、厚沢部町はその典型とも言われています。ストロー現象による地域衰退のメカニズムは「モータリゼーションに伴い車に便利な幹線道路沿いに生まれた大規模店舗につぎつぎと客を奪われてしま」うことが、地域の商店街の衰退につながっていると考えられています(本間義人2007『地域再生の条件』岩波新書,p82)。

また、自動車に過適応した幅広い直線的な道路は人間には危険が大きいものです。特に高齢者や幼児・小学生がそのリスクを引き受けることとなります。 久保田尚らは、異なる歩行環境におけるストレス測定、アンケート調査、歩行行動分析を組み合わせ、「車が通行しない空間は,歩行者にとって,車が通行する空間よりも「質の高い空間」であるという仮定が支持されることを確認した」と結論づけました(札本 太一・小嶋 文・久保田尚 2011「歩行者の外形的な特徴に着目した空間評価に関する研究」『土木学会論文集(土木計画学)』Vol67,pp.No5,67_I_919-67_I_927)。

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幅の広い道路は自動車には快適だが、歩行者には道路横断にも苦労が生まれる(国道227号佐市のケヤキ付近

道路なくして私たちの社会が成り立つことはありませんが、発達した道路交通が地域の衰退や暮らしにくさを引き起こしていることも事実です。ヨーロッパでは、中心市街への自家用車の乗り入れを禁止することがまちづくりのメインストリームになりつつあります。日本でも富山市のように市電とレンタル自転車を組み合わせた新しいモーダルスタイルを実現している町もあります。たとえば、銀座、新宿、秋葉原などの商業地では週末には中心街への自動車乗り入れを制限し、巨大な「歩行者天国」を出現させ「賑わい」を創り出しています。

過度な自動車依存が引き起こす問題の一つとして「高齢ドライバー」問題があります。心身機能の衰えが進む高齢者が自動車を運転することは危険が大きく、北海道警察でも免許の返納などを呼びかけています。一方、厚沢部町のような公共交通の空白地域では、自動車運転ができないことは、日常の買い物、友人との交流、趣味活動ができないことにもつながり、そのことは高齢者の生活や心身の健康に悪影響を及ぼします。厚沢部町では高齢者生活支援事業として、外出支援事業(福祉有償運送によるタクシー事業)を行っていますが、それだけでは高齢者の外出や生活のニーズには十分応えられていないと考えられます。

道路交通によって発展した鶉や本町の町がこれからどのように変わっていくのかは、道路交通との関わりを除いては考えられません。道路は町の繁栄の原動力であるとともに、町を衰退させる力もあわせ持っていることを心に留め、暮らしやすい町を生み出す道路と交通のあり方について考えていく必要があります。