厚沢部文化遺産調査プロジェクト

北海道厚沢部町の文化遺産や歴史、自然について紹介します。

松前藩の鷹打場〜旧地名「鷹落」をめぐる謎〜

現在の鷹落(2022年9月17日撮影)

厚沢部町字鶉に「鷹落」という旧地名があります。「鷹落」地名は「鶉本村」の西側に広がります。

旧字名「鷹落」の分布

現在の「鷹落」には厚沢部町が設置した看板があります。看板の記載は次のとおりです。

厚沢部町が設置した説明板

宝暦年間、今から240年前、この地には数多くの「鷹」が生息していたのです。

当時、松前藩第十二代資広公の頃は、藩内に390箇所の”鷹場”を設けていたといわれます。 この”鷹場”で、鷹侍は「鷹」を撃ち落とし、将軍家に献上して功名を挙げ、高価なものは、1羽30両にもなったといわれています。

その”鷹場”は、この付近にあったもので、昔から村人に「鷹落し」の呼び名で親しまれている所です。

『鶉本村部落誌』の「鷹落し」

『鶉本村部落誌 あの歳この日』(1981,鶉郷土誌編集委員会, p16)には「鷹落し」について、次のような記載があります。基本的には町設置の看板と似ていますが、細部が異なっています。

延宝六年(一六七八)松前藩主 第十代矩広公が、厚沢部で鶉狩りをしたと記録されているが、藩は漁業のほか一大財源をなしていたものは、檜材と「鷹」の移出であった。

当時、蝦夷地は「鷹」と「鷲」によって楽天地で数多く生息していたという。

この「鷹」を捕獲するため「鷹場」(鷹打場)とよばれた場所が設けられ、宝暦十一年〜同十三年(一七六一〜一七六三)の最盛期には、藩内に三九十個所ほどであった。

「鷹場」には鷹侍が入りこみ、ここで弓矢で撃ち落とされた鷹は、将軍家に献上品として、また、諸大名や武家の狩猟用として高価な値で買い上げられた。鷹のうち、一才のものを黄鷹(雌を弟鷹、雄を兄鷹と呼び、弟鷹は最も高価であった。)と言い、二才のものを山がえり、三才のを青鷹、四才を片諸がえり、と称し、高価なものは一羽、三十両といわれている。

この「鷹場」は、現在のし尿処理入口付近を言い、旧字名にも付されていたほどで、今でも「鷹落し」と呼び、厚沢部内の年輩の人々には余りにも知られている処である。

『御巡検使応答申合書』の鷹

『御巡検使応答申合書』(松前町史編集室 1974『松前町史史料編』第1巻, pp.397-410)は、宝暦11年(1761)に幕府巡検使が松前藩領を巡検する際に、松前藩巡検使との応答のために作成した家臣団の申し合わせ書、一種のカンニングペーパーです。したがって、多分に松前藩の脚色が入る余地があるといえます。

一、西東鳥屋場若狭守家中共三百九十ケ所余御座候得共、鷹侍召抱扶持等多ク入、勿論古ヨリ鷹弐数も不足ニ付右之内能鳥屋ヲ弐十ニ三ケ所待セ申候、時ニより鷹通筋も違年ニりよ多分御座候

一、鷹届之衆も無御座候故、家中之所務ニ不罷成候、享保元申年御鷹献上之儀被仰付、同年冬御鷹八連献上仕、翌酉年春一連献上仕、依之道中御鷹之餌并人馬御證文久世大和守殿ゟ御渡被下難有奉存候、夫ゟ去年迠年々不相替献上仕候

「鳥屋場」がいわゆる「鷹場」で、若狭守家中(松前家中)で390箇所以上もあったとされます。しかし、宝暦11年時点では昔と比べて鷹の数も減り、390箇所の鳥屋場のうち、良い鳥屋場は22〜23箇所しかなくなってしまったとされます。

それでも、享保元年(1716)には鷹の献上を仰せ付けられたので、同年冬には鷹八連を献上し、翌年春にはさらに一連献上し、それから去年まで相変わらず、鷹を献上していたということです。

松前蝦夷記』の鷹

松前蝦夷記』(松前町史編集室 1974『松前町史史料編』第1巻, pp.375-393)享保2年(1717)の幕府巡検使一行の編纂によるもので、有馬内膳ほか2名が派遣されました。巡検では松前から西は乙部、東は亀田黒岩まで訪れました。『御巡検使応答申合書』の約40年前に行われた幕府巡検で、記録はおよそ松前藩関係者からの聞き取りと思われます。

一、御鷹之儀代々毎年献上仕候、御内書頂戴所持仕候、貞享4年御鷹御用無之内者献上延引可仕旨被仰付、久々相止罷在候、去年ノ年御鷹献上可仕被仰出、冬中若黄鷹八連当春黄鷹一居献上仕候よし(以下略)

鷹は毎年献上しており、御内書を受けていました。貞享4年(1687)に鷹の入用がなくなったので献上を延期するよう仰せ付けられたので、しばらく鷹の献上を停止していたようです。そうしていたところ、去年(享保元年)、鷹の献上をするよう仰せ付けられたので、冬に若黄鷹を八連、良く春に黄鷹1居を献上したとされています。

この記述は、『御巡検使応答申合書』にある享保元年の鷹の献上の記述とかなり一致し、同じ状況を描写したものと思われます。また、鷹の献上は古くから行われており、それが、貞享4年(1687)に一旦停止され、40年以上、鷹の献上が停止されていたことがわかります。

さらに、『松前蝦夷記』では鷹打場所の一覧が示されています。西在郷(日本海側)のみ列挙すると次のとおりです。

西在郷

のしの下山 きよへ山 おもち沢 木曽山 上ノ国沢山 とと川山 江差かやおとし とよへ内沢川 おこなひ山 泊り山 お屋ま たざわ 今久保野 あつさふ沢 しとの山 乙部湯本 こりん沢 おとへ沢

右之外矢こし 大野 汐とまり もない けんにち えとも杯と申所ニ而数ケ有之以上三百九十ケ所余有之よし、

西在郷の鷹打場所として「あつさふ沢」の名前が見えます。現在の「鷹落」と一致するかどうかは確認できませんが、厚沢部川沿いに鷹打場所があったことは確実です。

古代の鷲羽

ここまでは、松前藩時代の鷹狩り場の記録をみてきましたが、より古い時代の鷲や鷹について資料が残されています。北海道は古くから鷲・鷹の産地として知られており、古代から中世には、北方産の鷲羽は矢羽として珍重されていました。特にオオワシオジロワシの羽が最高品質の「真羽」とされてきました。

平安期以降の史料には「鷲羽」とともに「粛慎羽」という鳥の羽の記録がしばしば登場することが知られており、箕島栄紀さんによって史料の集成がなされています(箕島栄紀 2015「「粛慎羽」再考」『「もの」と公益の古代北方市ー奈良・平安日本と北海道・アイヌ勉誠出版社, pp.189-241)。

箕島さんは、粛慎羽は鷲羽とは区別されていること、また、その名称が北方のニュアンスをきわめて色濃く持つことに注目します。細かい考察は省きますが、箕島さんは粛慎羽を、アイヌ民族が特別視するシマフクロウ(コタンコロカムイ)に由来する可能性が高いことを指摘します。粛慎羽、鷲羽ともに主たる産地は北海道と考えられ、北海道産の猛禽類は、松前藩時代の鷹だけではなく、古代・中世に遡って、貴重な北海道産品だったといえるでしょう。

まとめ

厚沢部町字鶉の旧字名「鷹落」は、松前藩時代の鷹打場に由来すると考えられ、さらにその原型は、ひょっとすると古代の献上品として記録に残る「鷲羽」や「粛慎羽」の産地だったかもしれません。厚沢部産の鷲羽が後白河法王や源頼朝に献上された可能性もゼロとは言えません。そんなことを考えると、「鷹落」の地名は私たちの想像を超えた重要な意味があるのかもしれません。



クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 記事 は クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。