厚沢部町と北斗市の境界にある中山峠は、安政元年の箱館開港以来、西在江差と開港場箱館をつなぐ陸上交通の要衝となりました。古くは江差の商人鈴鹿甚右衛門が鶉山道として開削を行い、その後も江差商人や真宗大谷派による道路開削が近代初頭に行われました。明治19年、発足したばかりの北海道庁が着手した事業が函館と江差を結ぶ陸上交通網の整備、すなわち鶉山道の開発工事でした。 鶉山道の開削工事の様子は石田長助による『鶉山道図鑑』に残されています。
吉田はたごやの跡
北斗市側から中山トンネルに入る手前左側に旧中山トンネル(冒頭の写真)へ続く旧国道があります。その脇に「吉田はたごや」の跡があります。大野町文化財保護研究会によって建てられた看板があります。看板の先はちょっとした平場になっており、かつての「はたごや」跡と思われますが、建物の痕跡を示すものは残っていません。
旧国道と旧中山トンネルをゆく
現行の国道南側を並行して旧国道が延びています。手入れはされているので楽に歩いていくことができます。
旧国道の突き当りには旧中山トンネルがあります。乗り合い自動車などが普及してくると、峠を越える鶉山道の峻険さが問題となり、トンネル工事が計画され、大正13年6月に竣工されました。このトンネルは、昭和37年着工の現在の新中山トンネル完成まで使用されていました。
鶉山道をゆく
旧中山トンネルから右(北)に転じると、小さな沢があります。明治19年に開削された鶉山道はこの沢沿いを約200mさかのぼり、沢をわたって、中山峠のある尾根へととりつきます。
すっかり笹薮に覆われていますが、かつての鶉山道はしっかりと残っています。
ここが本当の中山峠だ!!
鶉山道を上り詰めると本当の中山峠に到達します。国道はトンネルでショートカットしているので、厳密には中山峠を越えていないのです。ちなみに、この峠を越えて、明治元年に松岡四郎次郎率いる幕府一聯隊が館城攻略をめざしました。そして、翌明治2年には薩摩藩・長州藩など新政府軍が二股台場を守る土方軍の陣地をめざしてこの峠を越えたのでした。
この地点は、『鶉山道図鑑』「中山峠字三角壱之図」と同一地点かと思います。
中山峠を厚沢部側にくだったところは大きくオープンカットされています。
そしてこの地点は「中山峠三角貳之図」と同一地点ではないかと思います。
今回の踏査ルートは大正6年測量の地形図にみえる鶉山道でした。