二つの碧血碑
箱館戦争戦没者の慰霊モニュメントとしては、旧幕府軍の戦没者の慰霊碑として函館山山麓の碧血碑が知られています。また、厚沢部町字木間内の鶉ダム周辺にも同名の「碧血碑」があり、こちらは松前藩士の慰霊を目的としています。
厚沢部町の碧血碑は大正8年に北海道町農業技師蠣崎知二郎が建立したものです。蠣崎知二郎はこの年北海道庁を退職し、空知農業学校の校長に就任しますが、碧血碑の建立は道庁退職から校長就任までの期間に行われています。知二郎がなぜ碧血碑の建立に至ったのかはわかりません。
鶉ダム碧血碑はなぜ建立されたのか
知二郎が碧血碑の建立に至った動機はあきらかではありません。松前藩の戦没者は江差町松ノ岱(現字本町)檜山護国神社境内に祭られており、必ずしも慰霊が不十分とは考えられていません。一方、箱館戦争において松前藩は多くの戦没者を出しているにもかかわらず、開拓使や北海道庁に登用された人物がほとんどいないことも、こうした犠牲に対する忘却の懸念を抱いた可能性もあります。
箱館戦争における死傷数
箱館戦争への出兵は松前藩含む15藩で、このほかに箱館府兵や直属軍である「親兵」があり、総数は8,041名とされます(『復古外記 蝦夷戦記』第十)。
『復古外記 蝦夷戦記』によると、このうち、松前藩の出兵数は1,684名とされ、弘前藩2,207名に次ぐ兵数を出兵させています。ただし、この出兵数については『松前町史資料編第一巻』「戦争御届出書」解題中に示された551名と大きくかけ離れています。この差異が何に起因するものかは、現時点では明らかにできていません。
出兵15藩の中で、松前藩が突出して大きな被害を出しているわけではありませんが、総兵数を『松前町史』の見解にしたがい551名とすると、死傷率は35%となり極めて高い水準となります。
戦没位置
箱館戦争における松前藩の死傷の発生は明治元年、2年ともに激戦が行われた松前周辺と、五稜郭攻略のための戦闘が行われた七重浜から桔梗野周辺に集中します。
明治元年では、旧幕府軍蝦夷地上陸直後の峠下周辺や松前城攻略途上の木古内及び知内、松前城周辺で多くの死傷が発生しています。また、松前藩の名目上の根拠地となっていた館城周辺の攻防戦でも大きく死傷者を出していことがわかります。
松前藩の死傷者
明治元年から2年にかけての箱館戦争出征松前藩士の死傷数です(「戦争御届出書」『松前町史資料編第一巻』)。
死傷者内訳を身分別に図示しました。身分による死傷内訳に差があるかどうかが気にかかるところです。
type | 将校 | 下士官 | 士分 | 卒分 | 民兵 | |
---|---|---|---|---|---|---|
戦死 | 8 | 3 | 12 | 37 | 6 | 16 |
重傷 | 4 | 3 | 6 | 14 | 2 | 2 |
傷 | 8 | 5 | 14 | 35 | 2 | 19 |
身分別の死傷内訳の差を検討を検討します。標本データから1000回リサンプリングを行った結果の分布をヒストグラムで可視化し、標本データ(実際の死傷者)のカイ2乗値を赤ラインで示しました。片側検定になるので、これは帰無仮説(身分によって死傷内訳に差がある)は棄却されそうです。
Table: chisq test result
statistic | chisq_df | p_value |
---|---|---|
3.466817 | 8 | 0.9017496 |
カイ2乗検定のp値0.9で、帰無仮説(身分によって死傷内訳に差がない)は棄却されません。松前藩は、少なくとも死傷者の内訳に身分差がなかったと言えるでしょう。
明治元年と明治2年の違い
松前藩単独で戦った明治元年と新政府軍の一員として戦闘に加わった明治2年では、戦闘様式に大きな差があったと考えられます。明治元年と明治2年の差を検討します。
棒グラフからは明治元年と明治2年で死傷内訳に大きな差がないように見えますが、明治元年の方が若干戦死の割合が高いように見えます。
明治元年と明治2年の死傷内訳の標本データから1000回リサンプリングを行った結果の分布をヒストグラムで可視化し、標本データ(実際の死傷者)のカイ2乗値を赤ラインで示しました。
標本データのカイ2乗値(赤いライン)はリサンプリング結果の右裾に位置します。視覚的には明治元年と明治2年の死傷内訳には差があるように思われます。
Table: chisq test result
statistic | chisq_df | p_value |
---|---|---|
8.364598 | 2 | 0.0152634 |
カイ2乗検定のp値は0.015で、有意確率5%で帰無仮説(年によって死傷内訳に差がない)は棄却されます。明治元年と明治2年の戦闘において、死傷内訳に差があると言えるでしょう。特に明治元年の戦死の割合が高いのものと考えられます。明治元年の戦闘では松前城や館城など、松前藩の本拠地が攻略されており、これらを単独で防衛しなければならなかったこと、旧式の兵器を運用しなければならなかったことから、戦死者の割合が増加したと考えたいと思います。
まとめ
「碧血」とは「『荘子』外物」の故事による成語で、四字熟語としては「碧血丹心」があります。「忠義のために死んだ者」というぐらいの意味でしょうか。蠣崎知二郎は、戦没した松前藩士を「碧血丹心」の士ととらえていたと同時に、函館山の碧血碑と同等の忠魂の碑を建立しようと考えたものと推測します。旧幕府軍の戦没者が碧血碑を建立されていることと釣り合いをとりたかったのでしょうか。
これまでみてきたように、2カ年にわたる箱館戦争で、松前城と館城の2箇所の本拠地を潰され、松前藩は莫大な損失を出しました。嘉永2年(1849)の『御扶持家列席帳』(松前町史資料編第一巻)には631名の士分の者が記載されています。藩士約600名のうち、戦死と重傷を合わせて113名の被害を出したことは、松前藩のその後にとって大きな損失だったことは間違いありません。そして、そのことが近代初期の松前藩、ひいては渡島半島南西部が「先発の後進地域」と揶揄されるきっかけになったことは否めません。函館出身とされる蠣崎知二郎はそれを肌で感じていたのかもしれません。
最後に疑問点を列記します。