厚沢部文化遺産調査プロジェクト

北海道厚沢部町の文化遺産や歴史、自然について紹介します。

文献にみる館城戦争

明治元年厚沢部町字城丘に築城された館城は、明治元年9月初旬に着工し、同年11月15日に旧幕府軍松岡四郎次郎率いる幕府一聯隊の攻撃を受け落城します。文献資料に残された館城戦争の推移を示します。

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明治元年に築城された館城

五稜郭出陣から稲倉石まで

11月5日の戦闘で松前城を攻略した旧幕府軍は、11月10日(8日とも言う)、さらに別働隊を派遣します。松岡四郎次郎率いる幕府一聯隊約200名(5小隊)が中山峠を越える鶉山道を目指して五稜郭を出陣しました。

南柯紀行

(前略)松岡隊に命じて八日五稜郭出軍大野に一泊、二股、一軒家に一泊(後略)

蝦夷之夢

十二日、一聯隊進みて稲倉石の関に迫る。

麦叢禄

又(十日)五稜郭よりは松岡四郎次郎兵二百余人を率い二股口間道より進む(此道は大野村より山路に入、館村迄十七里極険にして毎年冬分は雪深く通路を絶し最難路と云)。(中略)干○間道に向かいし二百余人の兵(松岡四郎次郎の隊)は十二日稲倉石と唱うる場処迄進しに、敵険に拠り隘路に関し之を茂る。

説夢録

此より先、館の新城を襲んとて、一聯隊隊長松岡四郎次郎三小隊五稜郭を十一月十日に出兵し、大野村に宿陣し、先に此所に守衛せし、同隊二小隊合せて二百余人を纏め、翌十一日江差に出る間道二股越より進軍す(余此役輜重を司どり下役五人、兵八人をして兵糧・弾薬を戦地に護送せしむ)。松前藩此嶮道を頼みにすと雖も、猶切所々々に大木若干を伐り倒し、通路を絶つと聞き(此道市の渡村より山路に入り、館の城まで十七里、殊に嶮阻にして毎歳雪深きこと丈余、十月より翌年二月まで人馬の通路なしと云ふ。然るに今年幸に雪少なくして四、五尺に過ぎざりし)、人夫数十人をして斧鍬鋸等を携へしめ道を開通す。

北洲新話

茲に亦五稜郭よりは二股(地名)口間道を江差に進まんと、松岡四郎次郎兵二百余人(乃ち一聯隊)を率いて大野村に陣す(十一月十日)。十一日に(土方の一軍松前を発せし日なり)二股越に進む(大野村より館の砦まで十七里、其路一の渡村より山路に入る。尤嶮にして、毎年冬に至りては雪深きこと丈余、人馬共に絶つ。幸にして今年は四、五尺に満たず)、且敵此の嶮を頼み大木岩石を斫つて路を遮ると聞き、樵夫等数十人をして鋸斧携へ道を開かしめて入る。

蝦夷

此の城を抜んが為、一聯隊長松岡四郎次郎二百余人を引率し、十一月十日五稜郭を進発して、其日は大野へ宿陣、敵の襲来を拒くが為に二日より屯し置きたる兵二小隊を合わせ、全軍十一日山道の嶮岨を越へ、行程七里元笹小屋と云処に到て野陣を張り、十二日兵を進む。

石井梅太郎の探索

松前藩の防御陣地は、稲倉石(現厚沢部町字木間内)に設けられていました。現在は鶉ダムの湖底に古戦場は沈んでいます。松前藩は岩肌が迫る狭い鶉側沿いの道を封殺するように陣地構築し、旧幕府軍を待ち受けていました。松岡隊は敵情視察のため、「嚮導役」の石井梅太郎という者を先行させて松前藩の状況を偵察させました。

石井は、道案内の僧侶らとともに、稲倉石の関門を通り抜けることに成功しましたが、その後、見咎められ正体を明かされてしまい、斬殺されてしまいます。

南柯紀行

(9日二股一泊の)其前日石井梅太郎を土人に仕立、土人両人案内に付け敵兵の守り足る稲倉石の関門の形勢、探索として遣わせしに、関吏之を捕らえて切りし(後略)

説夢録

干時軍目付石井楳(梅)太郎土民二人と共に下賤の姿に変じ間諜たり、敵の番兵を欺き通り稲倉右(石)の関門をも難なく通り過しが、陣屋前に至りし時番士再三詰り問ふ。之を弁明する際誤りて短銃を落とせり。因て露顕し遂に三人共に斬首せらる。(楳太郎は備中勝山の藩石井宗賢の二男なり。宗賢肥前長崎に於て医を蘭人「シーボルト」に学び其女を娶りて、妻となす。今の「アレキサンドル・シーボルト」は楳太郎と従兄弟なり。楳太郎は洋楽を能し、機発の士なり。余此役の事実を松前藩の降人に聞くに、事露顕するに当り楳太郎臆する色無く、我不幸にして事ならず。乞ふ速に斬首せらる可し。一人は道連の僧罪なし、外二人は道案内なり。此亦別に罪あるにあらざれば放免せらる可しと。再三請て止まざりしか、既に関門の破る々際、右四人共に斬て走れり。後、藩主此事を聞き、武道不覚なりとて此手の隊長主人の目通りへ出るを止められたりといふ)。

北洲新話

石井梅太郎(差図役並)農民二人と共に間諜となりて敵の為に斬らる(梅太郎は姿を下賤にやつし、敵の番兵を欺き稲倉石ノ関門を過ぎしに、偶々敵兵の詰り問ふ者あり、弁解せんとするに誤て懐にせしピストールを顕はす。依て脱れざるを知り辞を正して曰く、吾は探索に来たれる者なり、速に首を刎ぬべし、一人は道づれの僧にして二人は全く嚮導の土民也、敢て罪ある者に非ず、願くは是を助けよと。彼聞かず、関門の破るる日この四人を斬て去ると。後ち我に降りし者の語りき)。

蝦夷

是より先き軍艦石井楳太郎は土民の姿に成り、農夫二人を引て間諜に出たり。敵の番兵を偽り、稲倉石の喚問をば難なく通り過しが、陣屋前に至り番兵再三詰り問、是に弁解する時誤て所持の「ヒストール」を落す。因て顕はれ三人共に斬首せらる。

稲倉石の戦い

石井梅太郎の探索が失敗に終わったことを知った松岡隊は、11月12日、ただちに稲倉石に向かいました。稲倉石の松前藩陣地は、険しい岩山に挟まれた川底にあり、鶉川を陣前におき、柵を設けていたとされます。松前藩の装備はおおよそ次のようなものでした。

  • ボート砲2門
  • 23ドイムホルチール(23cm臼砲)2門
  • 高さ一丈の丸太の柵

松前藩兵力はおよそ100程度だったと思われます(南柯紀行)。

松前藩は岩山に挟まれた狭い地形を利用し、川を前に陣地を構築していました。川岸に柵を立て、臼砲とボート砲(野戦砲)を重武器として備えていました。これに対して松岡隊は左右の岩山に兵を配置し、いわゆる「散開戦闘」の方式で各個に射撃し松前藩の陣地を攻略しました。松前藩は数多くの死傷者を出し、松岡隊は死者2名、負傷5〜6名だったようです。松前藩は木間内の陣屋を焼き捨てて敗走し、松岡隊は木間内陣屋付近に宿陣しました。

南柯紀行

(石井が切られたとの注進があったので)直ちに兵隊を進めて攻撃したり、此地敵兵は僅百人に足らざれども非常に険絶の地なれば攻め難きにより、絶壁なる山に登り其後を打ちたるに、怱ち敵潰走す、此時味方頭取佐々木鐘次郎戦死其外死傷三四名敵の死傷は今忘却せり(後略)

蝦夷之夢

敵軍川を前にし、柵を結び大砲(野戦砲亜ホート二門、二十三拇ホルチール)を連発、抗戦す。吾兵二手に分れて原を攀じ、左右の翼を張りて冒進し、頭取高木正次郎真っ先に進みて討ち死にし敵を追い崩す。この役にて我方死者二人、傷者三人のみ。

麦叢禄

我兵進て戦い、一隊傍なる峻山攀て関の横合より打入しにより辟易し関を捨て走る。此役に高木正次郎(差図役頭取)討死にす。其他死傷数人あり。

説夢録

十二日、斥候隊を先とし稲倉右(石)の関門に至り見るに、前に渓流あり、左右は峻にして纔に三十間計りの切所に柵を構へ、野戦砲二門(米利堅ポート)と臼砲二口(十二拇)を据て之を守る。然るに左右の山に敵の見へざれば、我兵左右の山に攀ぢ登りて敵を眼下に狙撃す(敵若し此に洋方の胸壁を築き大小砲を自在に放ち左右の山に守兵を置かば我如何に攻るも破り難からんに、只丸太を以て高さ一丈余り隙間なく振立砲門を切り抜しのみなるが故、我を狙いと弾つこと能はず未だ軍事開けず此我幸ひなり)。敵大小砲を放ち支ゆれども我之を眼下に狙撃しかば遂に破れて散走せり。此戦敵兵死傷多しと雖も、尽く助け負ふて退きし故、其数を知る能わず。只雪路鮮血の為め紅なるを見るのみ。此役我戦死者は高木正次郎(差図役頭取)弾を負ふて死す。其他兵士一人なり。創者は軍目付室田秀雄と嚮導役以下六人なり。而して敵の陣営に酒食等を残せり。此夜斯に宿陣す。

北洲新話

十二日松岡の兵進んで稲倉石ノ関門に(前に谷川あり左右に峻山あり、然も敵茲に兵を配らず、丈余の丸太を以て隙間なく柵を構へて野戦砲亜製ボート二門に十三拇ハント)逼る。我兵急に左右の山に攀り敵を目下に射撃し、又正面より柵門に進み大に撃て破之。敵敗軍我兵此に拠て陣す(差図役頭取高木正次郎を始め死する者二人、傷者三人、敵を斃すこと数人)。

蝦夷

此処より一里奥、稲倉石と云処に敵胸壁を構へ、頻りに大砲を打出す。我兵地理不弁似付き、一大隊を四つに分ち、一小隊を正面より進め、各一小隊づづ左右の嶮岨より進ましめ、関の左右より是を撃しむ。残る二小隊は応援として静に跡より進む。敵は本道のみ厳重に堅めたる処、左右の嶮岨より一度に攻掛られ敗走し、是より奥「キマナイ」と云処の陣屋をも焼捨て引き退く。此日敵を殺す五人、吾軍頭取高木正次郎戦死す。傷つく者八人なり。

鶉村への進撃

稲倉石の松前藩陣地を突破した松岡隊は、11月13日に鶉村へ進出し、ここに宿陣しました。

夫より敵を尾撃して鶉村へ至れり、(後略)(南柯紀行) 十三日、鶉村に進みて陣し、(後略)(蝦夷之夢) 翌十三日兵を両道に分かち鶉村に至る。(麦叢禄) 十三日兵を両道に分て進んで鶉村に陣す。(北洲新話) 同十三日「キマナイ」に至り、両道に兵を別け、鶉村へ進で陣す。同処の農民逃れ退て悉く空虚なり。漸くして一人の農夫を捕へて地理を問ふ。言語更に不弁。(蝦夷錦)

鶉村の戦闘

11月14日、松岡隊は館城へ2小隊(80名程度)を偵察に派遣しました。いわゆる「威力偵察」に相当する軍事行動です。偶然にもこのタイミングで松前藩が鶉村の松岡隊本陣を襲いました。松岡隊は防戦に成功し、松前藩の隊長(水牧梅干と思われる)を死傷させました。

南柯紀行

(前略)敵兵二道に分て鶉村方に襲い来たれり、味方不取敢応戦二時間程の内に両道とも打払い、敵数人打斃しければ敵散々に敗走して新城方に引き退きたり、(後略)

蝦夷之夢

(十四日)敵兵吾虚を撃たんと兵を潜め、雪靴を付け、山中路なきところより吾本営の左右に出、襲撃す。吾兵力をつくして防戦し、喇叭兵八人を敵の背後に廻し所々に散って闇号を吹き吾兵勢を助く。敵兵後ろを観狼狽、自ら崩れ走る。途々吾斥候に遭い、また散々破れ兵器を捨て山谷に逃げる。

麦叢禄

(十四日館村へ斥候を出したところ)然るに敵、兵を潜め我鶉村の本営を襲う。我兵俄に撃て之を却く。

説夢録

翌十三日、飛雪寒風を犯し、進て鶉村にて宿陣す(館城へ二里余なり)。(中略)敵兼て一策を設けしが、我兵の城辺に巡邏せしを全軍進撃城に迫ると察しけん、遙かに砲声の聞こゆると斉しく我が本営に討て掛る。我二小隊速かに出て之と応戦す。此手の隊長を打ち斃す、生捕二人あり、分捕若干。

北洲新話

十四日二小隊をして館村近く巡邏す(鶉村より二里余)。此時敵兵を潜めて我鶉村の営を襲来る。我軍俄に撃て退之。

蝦夷

此の跡に鶉村の本営へ敵攻め来る、吾が兵力を尽し防戦し、午の刻より未の刻に至て敵敗走して引退く。此日敵戦死六人、吾兵傷者二人也。小銃十二挺を得たり。

館村前哨戦

松岡隊は早朝から2小隊(1中隊とも)を館城方面は派遣しました。松前藩側もこの動きを察知したのか、対抗して出兵し、場所は不明ながらも小規模な戦闘が行われました。松前藩軍は防御陣地を構築していたようで、大砲も使用したようです。松岡隊は松前藩の側面の丘陵に兵を送り、ラッパを吹いたところ、松前藩軍はこれに驚いて敗走したようです。松前藩はボート砲も捨てて逃走しましたが、松岡隊もこれを鹵獲することはできませんでした。

蝦夷之夢

(前略)翌十四日早天、丈余の雪を冒し斥候一中隊館村へ進む(鶉村より二里余)。

麦叢禄

十四日二小隊をして巡邏の為、館村へ出す(鶉村より館村迄二里余)。此頃(鶉本営が襲撃された頃)に館へ向し巡邏兵も敵兵と会し大に戦う。我兵五六人、傍らなる山に入喇叭を吹立て横合より打入んとするの勢を成しければ、彼顧て潰走し館の新城に退く。此時ボートホーイスル二門を分捕しが道路険しき故に捨て帰陣す。

説夢録

十四日朝、館城辺へ巡邏兵二小隊を出す。敵要所に拠て大小砲を放ちたり。我分隊潜かに繞り進て、敵の横合小高き山に登りて、喇叭を吹立しかば是に驚き引て城に入る。我素より巡邏の兵なれば之を追はず。

北洲新話

十四日二小隊をして館村近く巡邏す(鶉村より二里余)。(中略)此頃ひに嚮に出せし我巡邏兵(二小隊)も無端敵軍に会し、大に戦ふ。我奇兵五、六人傍なる山に入り急に喇叭を吹き横を突かんとするの勢をなしければ、渠顧み潰ゆ。退ひて館の新砦に入って此を守る。この時ボートホイスル二門奪ひしが路嶮なるが為に捨て鶉村に帰て陣す(此夜松前候は戦の我に及ばざるを見て奥方始め老少男女を引て路を乙部村より熊石に退く)。

蝦夷

同十四日朝二小隊を出して館砦の斥候をなさしむるに、伏兵不意に起て小銃を打出し、吾軍も兵を揃て打立てしが、戦中半にして敵俄に退く。地理分明ならざれば遠く是を追はず引退きたり。

館城攻防戦

11月15日、松岡隊は3小隊(120名程度か)を率いて館城攻略へ向かいました(鶉村に2小隊を残したものと思われます)。

館城は、200名ほどの守備兵がいたとされます。松前藩兵は激しく抵抗し、戦線は一時膠着したようです。このとき、差図役の伊奈誠一と越智一朔が門の下をくぐり抜け城内に侵入することに成功しました。二人が城門を内側から開けたため、松岡隊が館城内に侵入し、城内での乱戦となりました。後述するように、松前藩の三上超順は乱戦の中躍り出て、4名の松岡隊兵士に手傷を負わせました。

城内に突入された松前藩兵はついに敗走し、松岡隊は館城を攻略することに成功しました。なお、松岡隊は館城内で、松前家の家宝である信長から拝領した兼綱の鉾や武田信玄より賜った備前兼光の短刀、家康の御書、歴代の朱印、家来の由緒書、故伊豆守(13代藩主松前崇広)の手道具類などを発見し、函館に持ち帰り「豪民」に預けたといいます。

南柯紀行

(前略)翌朝新城に向かいしに敵二百人計必死に防戦せしが、味方前後より挟攻め格別砲発せずして柵の周囲に近づき、溝中に隠れ柵内を狙撃せしに由て、敵狼狽柵を越えて逃るあり、或は刀槍にて接戦を為すあり、宝器を抱きて走るあり、遂に之を乗取りたり、(後略)」

蝦夷之夢

この日(十五日)、一聯隊早天より館村の新城に迫る(この城、松前伊豆守かつて地形の嶮を愛し移城の志有りて築せしところ、故に松前候父子十月二十八日移住す。宝器を携う)。敵兵城中より大小砲を連発し防戦もっとも勤む。吾兵路の嶮に依りて砲を持ち来たらず。門扉を破るを得ず。戦い飽きて雌雄決せず。差図役伊奈誠一、越智一朔は慷慨の士なり。衆に抜きて奮進、水門に躍り入り、潜りて城中に乗り入る。これに力を得て門を破り、衆兵衝き入り短兵接戦なす。敵兵火を放ち、(中略)差図役頭取松山敬次郎は二人を相手に接戦、壱人を斬り、壱人は銃兵砲撃す。銃兵山田友吉銃槍にて二人を衝き殪す。そのほか、渡辺左仲、相馬助次郎等皆銃槍をもって敵を衝殪し討取二十四人、我兵死傷わずかに九人。大砲兵器を得る頗る多し(宝蔵に神祖の御書、御累代の御書付、御朱印その他松前祖先の肖像ならびに蠣崎某安土において豊太閤より賜りし兼綱の槍、信玄の贈りし兼光の短刀その他系図、領地目録等ことごとく捨て去る)。一聯隊一日ここに宿陣し、十七日江差に進む。

麦叢禄

翌十五日(開陽の江差を取し同日)払暁三小隊をして両道に分ち雪を冒し進で新城に迫れり。彼等前役我が為に○破らるるを以て山野の戦、勝可らざるを知けん、兵を配置し砦に拠り城門を堅く鎖して頻に大小砲を連発し我兵をして進むを得ざらしむ。我兵険路を来りし故大砲を牽かず。前日分捕せし砲は捨置しに由り彼是を城内に引入れ之を用て却我に発放(砲)す、故に城門破る能ず。此の時越智一朔(差図役下役)外壱人門扉の下より敵中に繰入、門貫(閂)を外し兵を招き進み戦う。彼も亦窮鼠の勢い兵を進て頗に防ぎし戦しかども其要処を奪われしに由り、遂に敵せず敗走す。(中略)此(超順が倒されたこと)に於いて敵皆柵を踰て遁逃す。我兵此新城を抜と雖、兵少くして守るに便ならざるに由り己を得ず放火し之を焼き鶉村に屯す(松前兵海戦敗走し我兵皆勝、如何となれば彼兵は多く甲冑、弓槍、ケウェール等なり。我兵は悉く二つ帯ミニールを携しのみならず数度戦場を在来せし熟兵故に必勝せしなり。)。

説夢録

翌十五日払暁、館城に押寄三方に迫る。城兵は蠣崎武(民)部督たり。鈴木折(織)太郎等士卒に指揮し必死を極め大小砲を猛射す。此時、大手の口より越智一朔(差図役下役)なる者真先に進て、門戸の下より潜り入り、内より貫木を外し門を開く。次で伊奈誠一郎(嚮導役)進み入り、味方を導く。因て全軍乱れて入て奮戦す。此手の隊長三上超順なる者、小屋の蔭より突然躍り出て、右に刀を提げ左に俎板を持ちかざして切込たり。是が為に我兵四人手負いたり。此時、近きに在りし黒沢正助(差図役)・堀覚之助(陸軍奉行添役)馳寄て、超順を切斃す(此超順なる者は、其先は不知、法花(華)寺の僧なりしが武術を好みしが故、松前家取立て当時正議隊の隊長となせりと云ふ)。其他敵兵皆銃を投じ刀を振て接戦をなす。搦手より同時に乱入せり一隊の長杉山敬次郎(差図役)、敵二人と力戦に及べる所、渡辺左忠(差図役並)、銃を放ちて一人を斃す。残一人不叶とや思ひけん逃んとするを、杉山斬て之を斃す。山田友吉(兵士小頭)、銃剣(サーベル)を以て敵二人を突斃す。相馬助次郎(差図役並)も一人を斬殺す。敵遂に敗走し、僅に活路を求て遁れ去る。因りて館城も遂に我が有となる。此役の死傷を点検するに、敵の死する者十八人、傷者数を知るに由なし。我が兵の戦死する者二人のみ。負創者は為貝金八郎(差図役頭取)・横田豊三郎(同改役)・伊奈誠一郎(嚮導役)、外に兵士四人なり。而して諸庫を検査し分捕物を納め余は悉く放火し、元の陣営に引揚げたり。(中略)(松前藩甚だ狼狽せしと見へ、先祖蠣崎民部大夫安土に於いて太閤(太閤は右府信長の誤ならん)より賜る兼綱の鉾、武田信玄より賜りたる備前兼光の短刀、東照神君の御書並に御歴代の御朱印、家来の由緒書、故伊豆守の手道具類、其他佳品許多を残し置きたり。依て此重宝を悉く五稜郭に送り、追て函館の豪民に渡して松前藩士へ差出すべき旨申付けたり)

北洲新話

十五日(開陽の江差を抜し日)暁を払て兵を両道に分ち大雪を踏み、進んで館の新城に逼る。敵砦に拠て城門を堅く鎖して頻りに大小砲連発し、我をして進む事を得ざらしむ(我兵初めより嶮岨を来りしゆへ大砲を牽来たらず、前日奪ひし砲は捨て去りしにより敵又柵内に入れて発射す)。此時越智一朔(差図役下役)・伊奈誠一(嚮導役)、躍って門扉の下より敵中に飛入り、貫の木を外し兵を招きて進みて戦ふ。敵又窮鼠の勢い兵を進めて悪戦なすもの有と雖、巳に要地を奪はれしにより遂に敗走。(中略)又搦手より進し一隊も奮戦、杉山敬次郎(差図役頭取)は敵二人と力戦せしを渡辺左仲(差図役並)駈来つて一人を砲殺す。一人迯んとせしを杉山一刀に斬斃す。相馬助次郎(喇叭教頭)も一人を切る。山田友吉(士卒)銃槍を以て二人を殪す。因て敵潰散柵を超へ道を争ふて乱走す。於是、新城我有となる。然れども我兵少く守るに便ならず、乃ち火を縦ちて鶉村に屯す(此役敵を斬ること二十四人、我死傷僅に九人。敵殊に狼狽せしやに祖先蛎崎某安土に於て豊太閤より賜りし兼綱の槍、又甲の信玄の送りし備前兼光の短刀其外系図或は神君よりの御書、又我 先君よりの御朱印等数品あり、此重器は五稜郭に廻し後函館の市家に託し松前家へ送り返さしむ)。

蝦夷

同十五日払暁三小隊を三つに分て新城を攻む。残る二小隊は蛾虫村の敵背より来らんを拒くが為村に陣せり。四つ時に至て新城に攻かかる。敵は城門を厳しく堅めて防戦せり。雪中殊に嶮岨の道なれば、吾が大砲を引行く事能ず、小銃にて関門を攻破る事能ず、然るに指揮役越智一朔・嚮導役伊奈誠一郎、大門の扉の下をくぐり、内に入り、門を左右に開きたり。是に依て正面より向ふたる我が兵直ちに攻入る。其時裏門に向ひし一小隊も柵を破て攻入りければ敵敗走し、悉く蛾田村へ逃れ退く。九つ半時既に落城に及べり。(中略)又福山左膳と名乗て防戦する者あり。横田豊次郎等渡合、終に是を討取る。此城鶉村より二里半、又蛾虫村より鶉館とに道あり。吾兵小に而両所を守る事能ず、依て新城へ則はち火を放ち、兵を鶉村へ引退たり。此日吾兵戦死三人、傷者は頭取横田三郎・為貝金八郎・指揮役斧又次郎を始都合十七人なり。敵を討つ事六人、傷者数を知らず。

三上超順奮戦記

三上超順は、松前法華寺の僧侶でしたが還俗し、正義隊のクーデターに加わりました。館城築城の責任者の一人とも言われており、10月26日には稲倉石の陣地の視察もしていることから、厚沢部方面の軍事的責任者でもあったようです。

三上超順の館城での戦いぶりは、館城での戦闘を記録した旧幕府軍側の記録のほとんどに登場し、その戦いぶりが旧幕府軍兵士に強く印象付けられたようです。

南柯紀行

(前略)頭取横田某兵を率きて柵中に突入せしに、一僧あり長剣を振い左手に鍋蓋を以て盾として斬りかけしゆえ、短筒を以て打つ猶予なく、左手に疵を蒙りたるに傍らにありたる兵士敵を狙撃して斃せるに由て僅に免れたり、実に無双の勇僧なりと物語れり。

蝦夷之夢

烟の中より精英隊三上張俊(超順)と名のり、左手に楯を持ち、右手に大刀を振って吾兵を殺傷す。伊奈誠一銃槍を振い渡り合い三カ所の傷を受く。横田豊三郎そばより「ピストール」をもって撃たんとするを見、彼伊奈を捨て横田に斬り付く。横田の「ピストール」不発、剣を抜かんとし誤って倒れ右手に傷を受く。軍監堀覚之助、差図役黒沢正助(輔)援け来りて三上を斬り殪す。

麦叢禄

此時敵中一個の坊主あり三上超順と名乗。乱丸の中をも恐れず左の手に俎板を持、丸を防ぎ右の手に刀を閃かし兵壱両人を切殪し我嚮導役伊奈誠一郎(越智と倶に門を破りしもの)と戦い、伊奈小銃を以て防兼しを横田豊三郎事(差図役頭取)之を見て進み近き、力を合せ超順を獲んとて馳行きしに、超順早くも誠一郎を切り殪し(伊奈頭上三カ所の大創を蒙り、後病院に入癒たり)横田を目掛て馳来るを豊三郎ピストールを以て立迎い打懸しに如何したりけん発せず、之に由り刀を抜に暇あらず柄に手を掛、聊退しに降積りたる雪に蹶き倒るる所を超順得たりと乗掛り切付る(左の手首其他多く創を被る)。此時堀覚之助(軍監)、黒沢正介(差図役)遙に之を見て飛が如く馳付、超順を切殪し横田を救う。

北洲新話

時に敵中一人の大坊主あり、三上超順と喚はり、飛丸雨集の中を懼れず、右手に大刀左手に大なる俎板を持ちて丸を禦ぎ、躍来って我兵一両人を切斃し、伊奈誠一と戦ふ。誠一小銃にて阻へ巳に危し、横田豊三郎(差図役頭取)是を見て超順を討んと進みしに、彼早く伊奈を斃し(頭上より三カ所の大創を蒙り後病院に入って癒へたりと云)横田を目懸けて駈来るを豊三郎ピストールを提て打懸けしに不発、因て刀を抜の暇あらず、少く退くに誤て躓き倒る、超順得たりと躍りかかりて切り付たり(左手其他多く瘡を受く)。此時、堀覚之助(軍監)・黒沢正介(差図役)遙に之を見て飛ぶが如く駈来り、坊主を切斃し横田を救ふ(三上超順は其始めを知らず、松前法華寺の僧にして武を好めり、松前氏擢んで正議隊の長となすと)

蝦夷

此の時三上超順と名乗て小屋の蔭より躍り出、右の手に刀を提げ、左の手に俎を持て防戦す。是が為吾が軍四人傷者出す。軍監堀覚之助・指揮役黒沢正介進寄て超順を切倒す。超順其の先を知らず、松前法華寺の僧なりしが、武術を好み勇壮なりしかば、正議隊長に任ぜられ此の城にあり。

参考文献

大鳥圭介今井信郎 1998「南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記」新人物往来社

須藤隆仙 1996「箱館戦争史料集」新人物往来社


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