厚沢部文化遺産調査プロジェクト

北海道厚沢部町の文化遺産や歴史、自然について紹介します。

厚沢部町「鶉」地名の謎にせまる

厚沢部町の鶉という地名は日本語の小鳥の名前がついている可愛らしい地名です。鶉川という川があるので、「鶉川の近くには鳥のウズラがたくさんいたんですか?」と聞かれることも多いものです。鳥のウズラが多く生息しているイメージがないので、ちょっと返答に困る謎地名です。

全国のウズラ地名

全く同名の「鶉」は砂川市と福井市にありますが、それ以外にも「鶉」という文字が入る地名は全国にたくさんあります。 この鶉地名を日本地図にプロットしたものがこちらです。

鶉地名分布図
全国の鶉地名分布図

北海道から対馬まで日本列島の北から南にまんべんなく分布しているというよりも、帯状に分布しているようにも見えます。 どうしてこのようになるのかは個別の地名研究に踏み込まないと難しいと思いますが、ちょっと意味有りげで不思議な分布です。

鶉地名の一覧表はこちらにおいておきます。

さて、ウズラという鳥は北海道から日本列島中部地域に分布するといわれています(Wikipedia「ウズラ」)。

インド北東部、タイ王国大韓民国中華人民共和国朝鮮民主主義人民共和国、日本、ブータンベトナムミャンマーモンゴル国ラオス、ロシア東部に分布する

そういわれて鶉地名の分布図をみると確かに西日本よりも東日本や北日本に多いような気もしますが、果たして厚沢部町の鶉地名は鳥のウズラと関わりがあるのでしょうか。

古い文献にでてくる「鶉」

鶉という地名が初めて文献に現れるのは、天明五年(1785)から行われた幕府の蝦夷地調査の記録の一つである「西蝦夷地場所・地名・産物・方程扣」です。 厚沢部川沿いの平地がみな畑になっていることを記した後、「(前略)アンノロ村・ウツラ村・コサナイ村・ニコリ川村。夏のあいだ畑作、秋は鮭漁する。」と記録しています。「ウツラ村」が鶉村と考えられます。厚沢部町史『桜鳥』(第1巻)では『松前髄商録』(同じく天明五年頃の記録)に登場する「ウカワヒキ」という地名はウツラのことではないかと推測しています。

時代が下った天保年間(1830年代)に成立したとされる『松前国中記』では厚沢部川の奥にある小村として「エゾ村・目名村・ウツラヒキ村・アンノロ村・エハシ村」が記されています。「ウツラヒキ村」が鶉村と考えられますが、かつては「ウツラヒキ」と呼ばれていた可能性を示す貴重な記録です。

安政元年に箱館開港にともなう箱館奉行所の開設をきっかけに箱館江差間の道路開削が行われました。この道路は俗に「鶉山道」と呼ばれたようで、これ以降の記録には「鶉村」の表記が一般的となります。

以上のように、「鶉」という地名が漢字表記されるのは比較的近年になってからのことと考えられ、古くは「ウツラ」あるいは「ウツラヒキ」と呼ばれていた可能性が考えられます。

ところで、所在が不明となっている『元禄十三年檜山絵図』という名称で知られている檜山南部地域の地名を書き記した絵図があります。 この資料は、昭和28年8月に行われた「檜山開発記念祭」というイベント会場に展示されていたもので、その後所在がわからなくなっています。 『上ノ国町史』の編著者である松崎岩穂氏が書き写した図が『上ノ国町史』(p471)に掲載されています。 この図には「ウツラ越」という地名がみえており、元禄十三年(1700)時点で「ウツラ」という地名が厚沢部川流域にあったことが確認できます。

資料の信ぴょう性が問われますが、この絵図が鶉(ウツラ)という地名が登場する最古の記録であると考えられます。

以上のことから、次のように整理できます。

  1. 1700年頃から「ウツラ」という地名が確認できる。
  2. 漢字表記の「鶉」は江戸時代末期に登場する。
  3. 地名の「鶉」が鳥のウズラと関連付けて考えられるのは江戸時代末期の漢字表記以降のことである。

「鶉」という漢字表記の出現が比較的新しいことから、私は「鶉」地名の語源としては、鳥のウズラよりもまずアイヌ語起源である可能性を考えたいと思っています。

アイヌ語地名だとしたら語源はなんだろう?

アイヌ語地名として「ウツラ」の語源を考えた場合、これまでの地名研究の成果を参考にすると以下のような候補が考えられます。

  1. 「ウツ・〜()」などの「ウツ」地名との関係
  2. 「ウツラ・〜(〜・間)」などの形容詞

アイヌ語地名研究の第一人者として知られる山田秀三1984『北海道の地名』北海道新聞社,p178-179)によると、「ウツ」地名は、「ウツ・ナイ」など、全道にたくさん知られていますが、その語源は今ひとつはっきりしないようです。タンチョウの飛来で有名な苫小牧市ウトナイ湖が「ウツ」地名の代表格ですが、やはり語源がはっきりしません。

「ウツ」自体は「肋骨」と訳されるようですが、「ウツ・ナイ」=「肋骨・川」では意味がとおりません。「ウツ・ナイ」を「横・川」と解釈している研究者もいますが、これもよくわかりません。肋骨のように川が横走する(グニャグニャと曲がっている)ことを示しているとも言われますが(山田前掲)、解釈としては強引さが否めません。

そもそも、鶉川は厚沢部川下流や安野呂川と比べてとくにグニャグニャと蛇行しているとは思えません。

古地図と鶉川
1920年国土地理院発行5万分1地形図にみる鶉川

「ウツラ」は「〜の間」という形容詞ですが、「ウツラ」単独では地名としての意味をなしません。 また、「ウツラ・〜」という地名も道内では類例がありません。 (ウトロがウトゥル=ウツラ地名の典型とのご教示をいただきました。)

以上のことから、「鶉」の語源は鳥のウズラではない、と考えてはみたもののアイヌ語起源である確証もえられないのでした。

「内浦に行く」がなまって「ウツラ」になった?

信ぴょう性は低いと思われるのですが、鶉部落の郷土誌『あの歳この日 鶉本村部落誌』(鶉郷土誌編集委員会1981,p13)には以下のような記述があります。このような由来譚が語られる背景を推測することも意義があると思われますが、鶉地名の語源とは考えにくいものです。

江差から落部に通ずる”アイヌ”達の「踏み分け道」として、小鶉川上流を越えていく道と、安野呂、清水を越えてい行く道があったので、小鶉川上流から越える旅人は「内浦に行く」また、向ふから来た人は「内浦から来た」と言い誰となし語り合ったことから「うつうら」が「うつら」「うずら」となまってついに「鶉」という地名になったとも言い伝えられ

「鶉マニアック〜鶉村は鳥のウズラではないんじゃないか?」で紹介した『元禄十三年檜山絵図』を紹介します。この資料は、昭和28年8月に行われた「檜山開発記念祭」というイベント会場に展示されていたもので、その後所在がわからなくなっています。幸い、『上ノ国町史』の編著者である松崎岩穂氏が書き写した図が『上ノ国町史』(p471)に掲載されおり、私たちもこの図の写しを見ることができます。

この図には厚沢部川上流に「ウツラ越」という地名がみえており、元禄十三年(1700)時点で「ウツラ」という地名が厚沢部川流域にあったことが確認できることはすでに紹介したところです。

古地図に登場する「鶉」

元禄十三年檜山絵図(『続上ノ国町史』)
元禄十三年檜山絵図(『続上ノ国町史』)

上図は『続上ノ国町史』掲載の「元禄十三年檜山絵図」を再トレースしたものです。よりはっきり見えるPDFファイルはこちら。檜山絵図.pdf

描かれた領域は厚沢部川南岸から上ノ国町の天ノ川北岸までです。この領域が元禄十三年時点で把握されていたヒノキアスナロ山の範囲なのでしょう。おおむね現在のヒノキアスナロの分布と重なります。 図の中段左端に「ウツラ越」という注記が見られるのが、「ウズラ」の初出と思われます。ヒノキアスナロ山の絵図なので鶉村方面は完全にスルーされていますが、現在の厚沢部町字当路あたりから鶉川流域へ抜けるルートを示したものと思われます。

その他にも、この図には現在までのこる地名がいくつも見られ、現在の地名や林道と照合することが可能です。興味のある方は研究してみてください。

西鶉の謎

厚沢部町に「西鶉」と呼ばれている地域があります。 現在の住居表示ではなくなっていますが、昭和34年の字名改正以前には大字鶉村の鶉川左岸一帯の字名でした。 現在でも、この地域は「西鶉」と呼ばれており、厚沢部町内では通用します。 国土地理院の地図では昭和32年の地形図には掲載されていますが、昭和44年の地形図では消えています。

西鶉は鶉(「鶉本村」と呼ばれている)と大丁岱(現鶉町)の間で鶉側の左岸に位置します。

鶉川流域の地名
鶉川流域の地名

なぜ「西」鶉なのか

西鶉は鶉の東側、大丁岱(現鶉町)の南側で、これらの集落とは鶉側を挟んで対岸の左岸に位置します。 厚沢部町内はもとより檜山管内では川を挟んで同じ集落と認識されるケースは稀なのですが、河道の変化なども考えなければならないのかもしれません。

それはさておき、鶉の集落より明らかに東に位置するにもかかわらず、なぜ「西鶉」と呼ばれるのでしょうか?

西鶉の東にある鶉

実は、西鶉の東にはやはり鶉があります。 厚沢部町条例の「字名設定」には、現「旭丘」に所在する旧字名として「字鶉原野」があります。 旭丘は字鶉や鶉町より東に位置する地名です。

また、字鶉や鶉町、字新栄には「字西鶉原野」があります。 これらの位置関係を『檜山郡厚沢部村字名地番変更調書』から地番を拾って表示すると下図のようになります。

鶉地名地図
鶉地名地図

旭丘に「字鶉原野」があると書きましたが、実態は大字鶉村の一部だった「字鶉原野」が字名改正によって旭丘になったといってもさしつかえないものです。

鶉原野の西にあるから西鶉原野なのでしょう

以上のことから、次のように推測します。

  1. もともと「鶉原野」と呼ばれているところがあった
  2. その西側の原野を「西鶉原野」と呼称した
  3. 「原野」がとれて「西鶉」と呼称されるようになった

ということで西鶉の謎は解けたような気がします。

その一方で、「鶉」=「ウツラ」という地名の発祥地も気になるところです。 鶉地名がなぜか鶉の平野部の東西に分かれて分布しているのは偶然なのでしょうか? 本来の「ウツラ」はどちらだったのか、新たな謎が生じています。


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