厚沢部文化遺産調査プロジェクト

北海道厚沢部町の文化遺産や歴史、自然について紹介します。

謎のロクロ場遺跡

ロクロ場遺跡(仮称)は厚沢部川中流域右岸の厚沢部町字新栄に所在あります。旧鶉山道(現国道227号)から標高50mの「鶉越え」と呼ばれる尾根を越えたところにある小高い丘です。厚沢部川にむかって西へ延びる尾根の延長にある独立丘に近い小丘陵で、厚沢部川とその支流である館川が南側を流れています。なお、この小丘陵は、中世城館とされる国分館跡(C-03-16)でもあります。

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轆轤場遺跡(国分館跡)全景

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ロクロ場遺跡と開墾役所(国土地理院基盤地図情報

ロクロ場遺跡は、安政年間に館村に設置されたと伝えられる「開墾役所」に物資を荷揚げした場所と言われています。

今回、遺跡周辺を踏査することにより、近代以前にさかのぼると思われる道跡を見つけることが出来ましたので、報告します。

厚沢部川と丘陵をつなぐ道跡

確認できる道跡の長さは62mで山側下端と谷側上端までの道幅は3mから4mです。かなり立派な道である印象を受けます。斜面上方は農地造成の際の盛土によって埋められたものと思われます。斜面下方では南寄りに方位を変えて厚沢部川方向へ道が延びていたと思われますが、排水トラフや厚沢部川堤防が構築され、延長はわからなくなっています。

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道跡(斜面下から上方)

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道跡(丘陵上面方向)

旧版地形図にみる旧地形

現在の館川は丘陵の南側を流れています、この流路は昭和30年代以降に付け替えられたものです。大正9年(1920)の旧版地形図や昭和23年(1948)米軍撮影航空写真では館川は丘陵の北側を流れることが確認できます。すなわち、小丘陵と開墾役所跡のある段丘面は尾根を通じてほぼ同じ標高の平坦面を構成しており、厚沢部川を遡上した川舟から物資を荷揚げする場合、もっとも合理的な荷揚げ場所と考えられます。

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大正9年国土地理院発行旧版地形図

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国土地理院昭和23年米軍撮影航空写

土地利用の履歴

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ロクロ場遺跡周辺地番

ロクロ場遺跡の土地所有は273番地の財務省所有地を除き民有地です。道跡のある西側斜面や農地となっている丘陵平坦面上は269、270-1、271-1、273などであり、地目は原野、山林である。昭和38年の字名改正調書ではいずれも山林、国有未開地となっています。また、明治11年(1878)の土地丈量(『厚沢部町史』第1巻,p185)では丘陵北側及び東側の低地である281番地などは「畑地」となっており、比較的早く農地化が進んだようです。

丘陵上面の農地開拓の時期は土地所有者のNK氏や字新栄在住のTH氏らの記憶によると昭和40年代と考えられます。また、新栄生活改善センターの前身である新栄保育所が昭和45年に建築されていることから、道道29号から丘陵上面に登る道路の敷設もこの頃と推測されます。

土地所有者のNK氏によると、道道29号から丘陵へ登る舗装道路は、当初は今より直線的な形状だったといいます。その後、現在のような斜面なりに湾曲する線形に改良されたとのことでした。

以上のことから、ロクロ場遺跡とその周辺は、丘陵周辺の低地部分については早くから農地開発が進んでいたようですが、丘陵上面では昭和23年航空写真や地籍が示すように、近代以降、一貫して山林であったと考えられます。農地造成の時期については昭和53年航空写真により農地が確認できることから、昭和53年以前と考えられ、地権者らの言うように昭和40年代に農地化されたと考えるのが妥当でしょう。

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1978 年国土地理院撮影航空写真

航空写真による道跡

昭和23年米軍撮影航空写真と昭和53年国土地理院撮影航空写真のいずれにも、今回調査した道跡は確認できません。昭和23年航空写真では、遺跡のある小丘陵の現況は山林であり、昭和53年航空写真では丘陵上面は畑地に造成されていることから、昭和23年以降、丘陵上面の農地造成が行われたことは明らかです。

また1968年から館第二地区道パイロット事業が実施され、その際に造成された道路の痕跡は昭和53年航空写真に明瞭に確認できます。

以上のことから、道跡が近代に造成されたとすれば次の可能性が考えられます。

  • 昭和23年から昭和30年代
  • 昭和23年以前

まず、昭和40年代と思われる農地造成により、道跡が塞がれていることから、昭和53年以後の造成の可能性はないと考えらまる。昭和23年航空写真撮影以後の造成であるとすれば、昭和53年時点で航空写真から判別できないほど山林化が進んでいたこととなります。山林化に20年程度の時間が必要と想定し、道跡の造成は昭和30年代以前と考えられますが、土地所有者の証言(昔から道のようなものがあった)とは矛盾します。したがって、昭和23年から昭和30年代に道跡が造成された可能性は低いと考えられます。

航空写真ではこれ以上の検証は難しいのですがが、米軍の航空写真が撮影された昭和23年以降に道跡が造成された可能性は低いものと考えています。

まとめ

現在のところ、断定することは難しいのですが、ロクロ場遺跡の道跡は、安政年間に松前藩によってつくられた可能性が高いと考えています。厚沢部川本流はかつては川舟で下流域との往復ができたと言われており、館地区への物資運搬に川舟が利用されてきました。厚沢部川右岸の開墾役所へ荷揚げをする地点として、ロクロ場遺跡はきわめて合理性の高い地点に位置します。

また、本遺跡は中世館跡である「国分館跡」でもあります。中世館跡の存在も伝承の域を出るものではありませんが、こうした内陸河川交通の要衝だったと考えると、この地点が中世館跡である蓋然性は高まります。

今後の調査では、遺物の採集をめざし、「動かぬ証拠」を探し出していきたいと考えています。