厚沢部文化遺産調査プロジェクト

北海道厚沢部町の文化遺産や歴史、自然について紹介します。

厚沢部の入口「峠下」

厚沢部町字峠下は函館から江差へ向かう国道227号の厚沢部側の入口にあたります。鶉川のもっとも奥にあった集落が峠下でした。「峠下」という地名は日本全国の至るところにあり、近隣では「箱館戦争勃発の地」として知られる七飯町峠下があります。

峠下の旧字名

峠下は昭和35年の字名改正以前は大字鶉村に属していました。現在の峠下の領域には「峠下」、「稲倉石」、「三角」、「大丁澤口」、「大野澤口」、「麓」の旧字名がありました。もっとも大きな面積を占めるのが、字名改正で字名となった「峠下」でした。

字峠下の旧字名

鶉ダムに沈んだ古戦場稲倉石

稲倉石は、現在の鶉ダムの右岸側にあり、ほとんどすべての領域が鶉ダムの築堤とダム湖の下になっています。

旧字名「稲倉石」

現在のダム築堤の下に、かつては稲倉石橋がありました。

明治元年箱館戦争時には松前藩がここに陣地を築いて館城攻略に向かった旧幕府軍に抵抗しました(江差町史編纂室 1974「戦争御届出書」『松前町史 史料編』第1巻, 松前町, pp. 319-342)。昭和48年に撮影された稲倉石橋の写真には、岩山の下に稲倉石橋があるのがわかります。

昭和48年撮影稲倉石橋

松前藩は稲倉石橋のあたりに柵を設け、大砲を備えていましたが、旧幕府軍は岩山をよじ登り側面や背面から攻撃したため、松前藩群は支えきれず撤退してしまいました(大鳥圭介 1998「南柯紀行」『南柯紀行・北国戦争概略衝鋒隊之記』新人物往来社, pp. 8-158)。明治19年の『鶉山道図鑑』にみられるように、稲倉石付近は岩山が左右からせり出す急峻な地形です。松前藩は狭い谷底を封鎖してしまえば簡単には突破されないと考えていたようですが、最新式の散開戦闘技術を身につけていた旧幕府軍の攻撃にひとたまりもありませんでした。

「第三拾 字稲倉石」『鶉山道図鑑』(函館市中央図書館所蔵)

なお、旧幕府軍が行った戦闘方法はライフル銃の性能を活かした散開戦闘で、山がちな日本では特に有効だったようです。フリードリヒ・エンゲルスは、散開戦闘の出現により、山岳は軍事上の障壁でなくなってしまったと述べています(フリードリヒ・エンゲルス 1964「昔と今の山岳戦」『マルクス=エンゲルス全集』第12巻, 大月書店, pp. 106-112)。松前藩も険しい山地を頼みに防御を試みましたが、最新の戦闘技術によってもろくも敗れ去ったのでした。

なお、「稲倉石」の語源はアイヌ語の「インカルシ=inkar-ushi-i=眺める・いつもする・処」と考えています。鶉ダムからは鶉川流域が一望でき、「インカルシ」にふさわしい景観です。

鶉ダムから一望できる鶉川の平野

麓長吉に由来する旧字名「麓」

鶉川の右岸にある「麓」は、鶉山道の整備に功績のあった麓長吉にちなんでつけられました。

旧字名「麓」

「麓」は麓長吉が最初に架けたといわれる「麓橋」に由来していると考えられます。 この橋は麓長吉が最初に架けた橋といわれています(厚沢部町編集委員会 1981『桜鳥ー厚沢部町の歩みー』p471)。

国道227号の中山トンネル手前の登坂車線の右側に旧道が並行していますが、麓橋は登坂車線の起点付近に現在もその姿を見ることができます。もちろん、麓長吉が架けたとされる橋とは別物です。下の写真は昭和48年撮影の麓橋と国道227号です。

昭和48年撮影 国道227号と麓橋

明治19年の鶉山道開削工事の様子を記録した『鶉山道図鑑』には麓橋付近の描写もみられます。図の中央上の方にみえる石積みは架橋工事の基礎と思われるものです。長吉が架けた麓橋もこの近くにあったかもしれません。

「第廿六 檜山郡峠下」『鶉山道図鑑』(函館市中央図書館所蔵)



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字名に昇格した「社の山」地名

鶉川の支流に社の山川という小さな河川があります。この社の山川を挟んだ段丘面に字「社の山」があります。

字社の山の旧字名

「社の山」の旧字名は少なく、「木間内」、「東館」、「東館原野」、「須賀」の4つです。これらの旧字名はすべて別の集落の一部で、字名改正に伴い「社の山」に編入された地域です。「社の山」の中心は「木間内」に囲まれた旧字名のない領域で、ここが本来の「社の山」だったと考えられます。

社の山川は木間内川だった

鶉川の支流の社の山川はかつては「キマナイ沢」と呼ばれていたようです。明治29年国土地理院発行の5万分1地形図では、現在の社の山川に「キバナイ沢」の名称が付されています。「キマナイ沢」は字名「木間内」の語源ですが、キマナイ沢付近に新たに社の山集落が形成されたことで「社の山川」に改称されたと考えられます。地名移動の事例として興味深いものです。

なお、「キマナイ」の語源は「キムン・オ・ナイ」(山奥に・ある・川)ではないかと推測しています。

明治29年国土地理院発行5万分1地形図

「社の山」地名の初出

社の山集落は明治期に東京からの移住者によって形成された集落です。明治29年発行の5万分1地形図では見られなかった集落が、大正9年国土地理院発行の5万分1地形図には「社ノ山」の地名とともに記載されています。

「社の山」地名がいつ頃つけられたのかは、はっきりわかっていません。厚沢部町では二級町村制が施行された明治39年以降移住者が増加したとされており(厚沢部町編集委員会 1969『桜鳥-厚沢部町のあゆみ-』厚沢部町, pp. 317-318)、おそらく社の山への移住も明治末頃と考えられます。その後の大正9年には国土地理院の地形図にも地名が登場することから、急速に集落が拡大したと考えられます。

明治29年国土地理院発行5万分1地形図

字名改正で表舞台に登場した「社の山」地名

大字名・字名としての「社の山」は昭和35年の字名改正までは存在しませんでした。字名改正により旧字名ですらなかった「社の山」は字名に昇格したのでした。



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史跡館城跡にちなんだ「城丘」地名

城丘と糠野(ぬかの)

城丘旧地名地図

厚沢部町字城丘は厚沢部町でもっとも奥まったところにある(主観的ですが)集落です。厚沢部川対岸の字富里と並んで、行き止まりの集落となっています。

現在の字名「城丘」は、この集落に国指定史跡館城があることから命名されたと考えられます。もともと館城の所在する糠野川右岸の台地上は館城に因む旧字名「城ノ岱」がありましたので、字名「城丘」は旧字名「城ノ岱」を今風に呼び替えたもの、と言えます。

一方、集落名として古くから親しまれている地名は「糠野(ぬかの)」です。城ノ岱はあくまでも館城の所在した台地上の地名であって、集落は糠野川に沿って広がっていました。地域の方々は、今でも「城丘」称して「糠野」と呼びます。

謎の多いヌカノ地名

「糠野」は北海道内に類似地名として「野花南」(芦別市)、「ヌカナン川」(足寄郡足寄町)「糠内」(中川郡幕別町)などがあります。山田秀三は「ノカナンやそれに類した地名が道内の処々にあるが、殆どが意味がわからなくなっていて(後略)」と述べており(山田秀三 1984『北海道の地名』北海道新聞社, p67)、謎の多い地名です。ここでは地名解に対する深入りは避けますが、永田方正は幕別町「糠内」について「nukan-nai(小石・川)」とする解釈を示しています。

地域資源の宝庫「矢櫃」

厚沢部川の支流である糠野川のさらに支流の矢櫃沢は、道南では珍しい硫黄泉の湧く冷泉です。ときどき汲みに行くのですが、1.5リットルのペットボトルに汲んだ冷泉をお風呂に投入するだけで、香りは完全に温泉になります。ただし、浴槽を循環させると故障の原因になりそうです。

矢櫃温泉の詳細についてはlocalwikiに記事を立てていますので参照してください(localwiki厚沢部「矢櫃温泉」)。

矢櫃鉱泉

矢櫃温泉のさらに奥には矢櫃鉱山があります。昭和初期に金を対象に探鉱され、昭和32年現在は銅を目的として探鉱が行われていたようです(五十嵐昭明 1957「IV 檜山郡厚沢部村地内の鉄・硫化鉄鋼鉱床調査報告」『北海道地下資源調査資料 第30号』, pp: 41-50)。五十嵐報告によると昭和32年時点では探鉱のための坑道が残っていたようです。

矢櫃鉱山坑道近くの沢

最強の地域資源「館城」

字名「城丘」の由来である館城は、明治元年松前藩によって築城されました。明治元年9月に築城工事が開始され、同年10月下旬には工事は中断されたようです。11月15日に旧幕府軍の松岡四郎次郎隊の攻撃を受け落城しました。

現在は堀と土塁の一部、井戸、御殿の跡と考えられている礎石が残されています。

館城に残る通称「百間堀」

発見された礎石

祟りがあると伝えられる「三上超順力試之石」
(三上超順力試し石)

米揚岱

館城の東側に広がる米揚岱は、厚沢部川の水運を利用して館城跡に物資を荷揚げした場所と伝えられています。

館城に物資を荷揚げしたと伝えられる「米揚岱」の川原



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三上超順力試之石はどのくらい重いか〜iPhone LiDARとCloudCompareによる体積計測〜

フォトグラメトリやiPhone LiDARによって取得した三次元データから体積を計測する方法を紹介します。

三上超順力試之石と祟りの伝説

館城内に安置される「三上超順力試之石」

「三上超順力試之石」は厚沢部町字城丘史跡館城跡内にある丸石です。次のような話が伝わっています。

かつて山田某という者が、城跡にあったこの石を家に持ち帰り、力試しに用いていたところ、妻が病気になるなど不幸が続きました。そのため、厚沢部町館町の正定寺に安置されていました。石は長く寺にありましたが、昭和43年に、開道百年・館城百年の記念として正定寺境内から館城内へ移設されました。(『南北海道の文化財』を参考)

力試之石は、館城築城の際に建物の礎石として持ち込まれた礫と考えられます。力試之石には、柱当りのような痕跡もみられることから、実際に礎石として使われていた可能性もあります。石材は安山岩で、鶉川中流域(木間内から稲倉石)の川原に多く見られるものです。

どのくらい重いのか

何度か持ち上げることを試みましたが、一人では全く持ち上がる気配がなく、また、手がかりが少ないので、大勢で持ち上げるのも難しいのです。ちなみに、3人がかりでも私は持ち上げることができませんでした。感覚的には軽く100kgは超えていそうです。

Scaniverseで計測

iPad LiDARで計測して三次元データを出力します。今回はScaniverseを使用しました。概ねよくスキャンできたと思います。

幾何補正

ScaniverseからOBJ形式でエクスポートし、Cloudcomapreで開きます。スタッフを写し込んでいるので、これを利用して幾何補正します。

CloudCompareに取り込んだ計測データ

ツール→登録→位置合わせ

ツール→登録→位置合わせ

スタッフ交点左下を原点(0,0)として、左上を(0,1)、右上を(1,1)、右下を(1,0)とします。Z座標は0にします。

幾何補正

切り抜き

不要な箇所を切り抜きます。 ハサミアイコン(分割・抽出)をクリックして分割ツールを起動します。

分割ツールを起動

不要な部分を切り抜きました。

力試之石を切り抜き

切り抜いたオブジェクトを側面からみる

体積を計算する

ツール→ボリューム→2.5Dボリュームを計算

ツール→ボリューム2.5Dボリュームを計算

Volume calculationウインドウが開きます。 基本的にはデフォルトで良いはずですが、設定は次のとおりです。

  • Source(Ground/Before) = Constant
  • Source(Ceil/After) = Vertices.segmented
  • step = 0.001(1mmメッシュで計算)
  • projection.dir = z
  • cell hight = average height

Volume Calculationの設定

ResultsのVolumeが体積です。 0.03 = 0.03㎥なので、力試之石の体積は約30リットルとなります。

30リットルの安山岩の重さ

体積が算出できたので、安山岩の比重を乗じます。 安山岩の比重は倉敷市自然史博物館さんのサイトを参考にしますと「2.7~3.0g/cm3程度」とありますので、2.8g/cm3を使用すると30×2.8=84kgとなります。

え、そんなに軽いの?と思いますが、確かに見た目は18リットルのポリタンクよりちょっと大きい感じなので、大きく外れていることはなさそうです。 まったく持ち上がる気がしない力試之石ですが、ちょっと浮かすぐらいなら、私でもできるはずの重さなんですね・・・



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松前藩の鷹打場〜旧地名「鷹落」をめぐる謎〜

現在の鷹落(2022年9月17日撮影)

厚沢部町字鶉に「鷹落」という旧地名があります。「鷹落」地名は「鶉本村」の西側に広がります。

旧字名「鷹落」の分布

現在の「鷹落」には厚沢部町が設置した看板があります。看板の記載は次のとおりです。

厚沢部町が設置した説明板

宝暦年間、今から240年前、この地には数多くの「鷹」が生息していたのです。

当時、松前藩第十二代資広公の頃は、藩内に390箇所の”鷹場”を設けていたといわれます。 この”鷹場”で、鷹侍は「鷹」を撃ち落とし、将軍家に献上して功名を挙げ、高価なものは、1羽30両にもなったといわれています。

その”鷹場”は、この付近にあったもので、昔から村人に「鷹落し」の呼び名で親しまれている所です。

『鶉本村部落誌』の「鷹落し」

『鶉本村部落誌 あの歳この日』(1981,鶉郷土誌編集委員会, p16)には「鷹落し」について、次のような記載があります。基本的には町設置の看板と似ていますが、細部が異なっています。

延宝六年(一六七八)松前藩主 第十代矩広公が、厚沢部で鶉狩りをしたと記録されているが、藩は漁業のほか一大財源をなしていたものは、檜材と「鷹」の移出であった。

当時、蝦夷地は「鷹」と「鷲」によって楽天地で数多く生息していたという。

この「鷹」を捕獲するため「鷹場」(鷹打場)とよばれた場所が設けられ、宝暦十一年〜同十三年(一七六一〜一七六三)の最盛期には、藩内に三九十個所ほどであった。

「鷹場」には鷹侍が入りこみ、ここで弓矢で撃ち落とされた鷹は、将軍家に献上品として、また、諸大名や武家の狩猟用として高価な値で買い上げられた。鷹のうち、一才のものを黄鷹(雌を弟鷹、雄を兄鷹と呼び、弟鷹は最も高価であった。)と言い、二才のものを山がえり、三才のを青鷹、四才を片諸がえり、と称し、高価なものは一羽、三十両といわれている。

この「鷹場」は、現在のし尿処理入口付近を言い、旧字名にも付されていたほどで、今でも「鷹落し」と呼び、厚沢部内の年輩の人々には余りにも知られている処である。

『御巡検使応答申合書』の鷹

『御巡検使応答申合書』(松前町史編集室 1974『松前町史史料編』第1巻, pp.397-410)は、宝暦11年(1761)に幕府巡検使が松前藩領を巡検する際に、松前藩巡検使との応答のために作成した家臣団の申し合わせ書、一種のカンニングペーパーです。したがって、多分に松前藩の脚色が入る余地があるといえます。

一、西東鳥屋場若狭守家中共三百九十ケ所余御座候得共、鷹侍召抱扶持等多ク入、勿論古ヨリ鷹弐数も不足ニ付右之内能鳥屋ヲ弐十ニ三ケ所待セ申候、時ニより鷹通筋も違年ニりよ多分御座候

一、鷹届之衆も無御座候故、家中之所務ニ不罷成候、享保元申年御鷹献上之儀被仰付、同年冬御鷹八連献上仕、翌酉年春一連献上仕、依之道中御鷹之餌并人馬御證文久世大和守殿ゟ御渡被下難有奉存候、夫ゟ去年迠年々不相替献上仕候

「鳥屋場」がいわゆる「鷹場」で、若狭守家中(松前家中)で390箇所以上もあったとされます。しかし、宝暦11年時点では昔と比べて鷹の数も減り、390箇所の鳥屋場のうち、良い鳥屋場は22〜23箇所しかなくなってしまったとされます。

それでも、享保元年(1716)には鷹の献上を仰せ付けられたので、同年冬には鷹八連を献上し、翌年春にはさらに一連献上し、それから去年まで相変わらず、鷹を献上していたということです。

松前蝦夷記』の鷹

松前蝦夷記』(松前町史編集室 1974『松前町史史料編』第1巻, pp.375-393)享保2年(1717)の幕府巡検使一行の編纂によるもので、有馬内膳ほか2名が派遣されました。巡検では松前から西は乙部、東は亀田黒岩まで訪れました。『御巡検使応答申合書』の約40年前に行われた幕府巡検で、記録はおよそ松前藩関係者からの聞き取りと思われます。

一、御鷹之儀代々毎年献上仕候、御内書頂戴所持仕候、貞享4年御鷹御用無之内者献上延引可仕旨被仰付、久々相止罷在候、去年ノ年御鷹献上可仕被仰出、冬中若黄鷹八連当春黄鷹一居献上仕候よし(以下略)

鷹は毎年献上しており、御内書を受けていました。貞享4年(1687)に鷹の入用がなくなったので献上を延期するよう仰せ付けられたので、しばらく鷹の献上を停止していたようです。そうしていたところ、去年(享保元年)、鷹の献上をするよう仰せ付けられたので、冬に若黄鷹を八連、良く春に黄鷹1居を献上したとされています。

この記述は、『御巡検使応答申合書』にある享保元年の鷹の献上の記述とかなり一致し、同じ状況を描写したものと思われます。また、鷹の献上は古くから行われており、それが、貞享4年(1687)に一旦停止され、40年以上、鷹の献上が停止されていたことがわかります。

さらに、『松前蝦夷記』では鷹打場所の一覧が示されています。西在郷(日本海側)のみ列挙すると次のとおりです。

西在郷

のしの下山 きよへ山 おもち沢 木曽山 上ノ国沢山 とと川山 江差かやおとし とよへ内沢川 おこなひ山 泊り山 お屋ま たざわ 今久保野 あつさふ沢 しとの山 乙部湯本 こりん沢 おとへ沢

右之外矢こし 大野 汐とまり もない けんにち えとも杯と申所ニ而数ケ有之以上三百九十ケ所余有之よし、

西在郷の鷹打場所として「あつさふ沢」の名前が見えます。現在の「鷹落」と一致するかどうかは確認できませんが、厚沢部川沿いに鷹打場所があったことは確実です。

古代の鷲羽

ここまでは、松前藩時代の鷹狩り場の記録をみてきましたが、より古い時代の鷲や鷹について資料が残されています。北海道は古くから鷲・鷹の産地として知られており、古代から中世には、北方産の鷲羽は矢羽として珍重されていました。特にオオワシオジロワシの羽が最高品質の「真羽」とされてきました。

平安期以降の史料には「鷲羽」とともに「粛慎羽」という鳥の羽の記録がしばしば登場することが知られており、箕島栄紀さんによって史料の集成がなされています(箕島栄紀 2015「「粛慎羽」再考」『「もの」と公益の古代北方市ー奈良・平安日本と北海道・アイヌ勉誠出版社, pp.189-241)。

箕島さんは、粛慎羽は鷲羽とは区別されていること、また、その名称が北方のニュアンスをきわめて色濃く持つことに注目します。細かい考察は省きますが、箕島さんは粛慎羽を、アイヌ民族が特別視するシマフクロウ(コタンコロカムイ)に由来する可能性が高いことを指摘します。粛慎羽、鷲羽ともに主たる産地は北海道と考えられ、北海道産の猛禽類は、松前藩時代の鷹だけではなく、古代・中世に遡って、貴重な北海道産品だったといえるでしょう。

まとめ

厚沢部町字鶉の旧字名「鷹落」は、松前藩時代の鷹打場に由来すると考えられ、さらにその原型は、ひょっとすると古代の献上品として記録に残る「鷲羽」や「粛慎羽」の産地だったかもしれません。厚沢部産の鷲羽が後白河法王や源頼朝に献上された可能性もゼロとは言えません。そんなことを考えると、「鷹落」の地名は私たちの想像を超えた重要な意味があるのかもしれません。



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厚沢部町の「メノコシ」地名

松園町とメノコシ地名

松園町は旧大字俄虫村の一部で、その大半は「女ノ越(めのこし)」という旧字名です。 女ノ越は松園町だけではなく、上の山にも広がります。

明治29年国土地理院発行5万分1地形図では、現在の上の山の領域に「メノコシノ沢」が見られ、この沢がメノコシ地名の発祥の地と考えられます。

明治29年国土地理院発行5万分1地形図と「メノコシ」地名

メノコシ沢は左右をヒノキアスナロ林に囲まれた広葉樹林の沢です。

メノコシ沢

『廻浦日記』のメノコシ

松浦武四郎安政3年(1856)に蝦夷地沿岸を探索した記録である『廻浦日記』(2001 『<安政三年>竹四郎廻浦日記』上, 北海道出版企画センター, 復刻版)は多くの挿絵と地図により、蝦夷地の地理を解説します。 メノコシは「巻の参 元山頂上より見分写取の図」に「土ハシ」、「エゾ村」の上流に記載があります。「土ハシ」は現在の厚沢部町字富栄、「エゾ村」は現在の緑町付近と考えられます。メノコシの上流には「コサナイ」が見え、これは現在の古佐内川(厚沢部町字当路)です。

松浦武四郎『廻浦日記』にみる「メノコシ」地名

廻浦日記本文では俄虫を起点として「本川筋の奥」に向かって「右の方金堀穴、メノコシ等云字有り」との記載が有ります。厚沢部川上流に向かって、右の方の沢には「金堀穴」や「メノコシ」の地名があるとされています。なお、金堀穴は本町市街地から厚沢部川の対岸にある河川侵食の岩陰を指すと考えられます。

厚沢部川左岸の「金堀穴」遠景

「金堀穴」には写真のような岩陰がいくつかあります。

「金堀穴」にある岩陰

『東西蝦夷山川取調図』のメノコシ

松浦武四郎によって安政6年(1859)に刊行された蝦夷地図です。河川を中心に細かな地名が記載されています。厚沢部近辺では厚沢部川の上流に向かって「メナ」、「エソムラ」(エゾ村)、「ツチハシ」、「ハタナイ」、「赤沼」、「俄虫」などの地名が見られます。「メノコシ」の「金穴」上流、「カシヤサワ」の下流に記載されています。「金穴」は廻浦日記の「金堀穴」、「カシヤサワ」は明治29年地形図の「アヂヤ沢」です。

『東西蝦夷山川取調図』(函館市中央図書館所蔵)

明治29年国土地理院発行5万分1地形図(アヂヤ沢)

「メノコシ」地名の由来

真っ先に思い浮かぶ「メノコ」=「女」は、地名として説明が成立しません。「メノコ・ウシ」(女・いる処)などとしても「メノコ」と「ウシ」が接続する例を知りませんし、おそらくそのような表現は成立しないものと思われます。「メノコ・クシ」(女・通る)などとしても、その意味を解釈できません。

私の力量では、「メノコシ」地名の解釈はこの程度にしておいたほうが良さそうです。



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旧大字名「館」を冠した新興地名「館町」

厚沢部村旧大字館村から館地名を引き継いだのが「館町」です。 いわば大字館村のフラッグシップ集落を継承したことになります。 しかし、その歴史は浅く、集落の形成は明治後半に入ってからです。

過去記事で述べたとおり、厚沢部町「館」地名の語源は現在の新栄にあります。

assabu.hatenablog.com

館町は、実は館地名とは無関係な場所に位置します。館町の大半は新栄を発祥の地とする「ロクロ場」系地名です。

館町旧字名の分布

近世の館町

近世には現在の館町に街場は形成されておらず、ほとんど人家も見られなかったと考えられます。集落は対岸の旧大字館村字沼ノ沢(現南館町)にありました。弘化4年(1847)に厚沢部川流域を訪れた松浦武四郎の『再航蝦夷日誌』にみえる「館村」は、現在の新栄、当路、沼ノ沢などを指すものです。

昭和23年米軍撮影航空写真でも、市街地の中心は南館町にあり、館町の市街地形成は不十分だったことがわかります。

昭和23年米軍撮影航空写真に南館町と館町

集落形成以前の館町(明治29年5万分1地形図)

明治29年5万分1地形図では館町にはかろうじて道路はみえるものの、人家をみることはできません。明治29年時点で館町は集落としての体裁を持っていなかったことがわかります。

明治29年5万分1地形図

大正9年5万分1地形図

大正9年地形図では、厚沢部川両岸に集落が広がっています。北側が館町、南側が南館町(沼ノ沢)です。郵便局や寺院が館町におかれています。学校や神社は南館町にあり、市街地が厚沢部川を挟んで2分されていたことがわかります。

大正9年5万分1地形図

昭和21年5万分1地形図

大正9年からあまり大きな変化は見られません。

昭和21年年5万分1地形図

昭和5年頃に館町と南館町をつなぐ岩館橋を撮影した写真です。川を挟んで大きな集落が形成されたため、橋は不可欠な存在でした。

昭和5年頃の岩館橋

丸木舟の上に乗っている小さな女の子が、昭和2年生まれの木村昭江さんと聞いていますので、昭和5年ごろの撮影と思われます。船の周りの子どもや若い女性はそれぞれ手にビクや箕を持っています。厚沢部川での風物を伝える貴重な写真です。

昭和44年5万分1地形図

昭和44年には市街地の中心は完全に館町に移ります。館町には学校、郵便局、寺院、病院が置かれました。南館町に残ったのは神社くらいでしょうか。旅館もあり、繁華街も形成されていたようです。

昭和44年5万分1地形図



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