明治元年の箱館戦争時には松前藩がここに陣地を築いて館城攻略に向かった旧幕府軍に抵抗しました(江差町史編纂室 1974「戦争御届出書」『松前町史 史料編』第1巻, 松前町, pp. 319-342)。昭和48年に撮影された稲倉石橋の写真には、岩山の下に稲倉石橋があるのがわかります。
松前藩は稲倉石橋のあたりに柵を設け、大砲を備えていましたが、旧幕府軍は岩山をよじ登り側面や背面から攻撃したため、松前藩群は支えきれず撤退してしまいました(大鳥圭介 1998「南柯紀行」『南柯紀行・北国戦争概略衝鋒隊之記』新人物往来社, pp. 8-158)。明治19年の『鶉山道図鑑』にみられるように、稲倉石付近は岩山が左右からせり出す急峻な地形です。松前藩は狭い谷底を封鎖してしまえば簡単には突破されないと考えていたようですが、最新式の散開戦闘技術を身につけていた旧幕府軍の攻撃にひとたまりもありませんでした。
なお、旧幕府軍が行った戦闘方法はライフル銃の性能を活かした散開戦闘で、山がちな日本では特に有効だったようです。フリードリヒ・エンゲルスは、散開戦闘の出現により、山岳は軍事上の障壁でなくなってしまったと述べています(フリードリヒ・エンゲルス 1964「昔と今の山岳戦」『マルクス=エンゲルス全集』第12巻, 大月書店, pp. 106-112)。松前藩も険しい山地を頼みに防御を試みましたが、最新の戦闘技術によってもろくも敗れ去ったのでした。
「社の山」地名がいつ頃つけられたのかは、はっきりわかっていません。厚沢部町では二級町村制が施行された明治39年以降移住者が増加したとされており(厚沢部町史編集委員会 1969『桜鳥-厚沢部町のあゆみ-』厚沢部町, pp. 317-318)、おそらく社の山への移住も明治末頃と考えられます。その後の大正9年には国土地理院の地形図にも地名が登場することから、急速に集落が拡大したと考えられます。