厚沢部文化遺産調査プロジェクト

北海道厚沢部町の文化遺産や歴史、自然について紹介します。

赤沼集落の沿革と地名の由来

赤沼集落の沿革

厚沢部町赤沼町は、昭和35年の字名改正で字名の変更がなかった数少ない集落です。赤沼集落の文献上の登場は遅く、管見の範囲では近代になるまで現れません。集落の草分けは陸奥国南部から移住した喜代三とされています。明治19年の『青江理事官諮問回答書 上』(函館市中央図書館所蔵)には以下の記述があります。

該村は萬延年間喜代三なるもの陸奥国南部より移住 鮭鱒漁業を基とし傍ら農業を兼ねたり 爾来続々移住現今人戸二拾三戸あり

万延年間は1860年1861年ですから、赤沼集落は近代直前に成立したことになります。ただし、赤沼神社の創立が明和8年(1771)とされていることと矛盾します。

赤沼集落

赤沼の語源

赤沼(あかぬま)は一見すると和語起源のようにも思われます。しかし、本田貢は「アカ・ヌプ」(尾根の・(間の)原野)と解釈しました(本田貢 1995『北海道地名漢字解』北海道新聞社,p18)。

赤沼地名の広がり

赤沼町旧字名

現在の赤沼町の範囲のうち、赤沼地名(紫色)は赤沼集落の西側に広がります。赤沼神社を中心とした半径およそ300mの範囲です。集落の北東には「観音町」地名が広がります。「観音町」という地名の由来は今のところわかりません。

また「イシナ渕」地名や「カッコ沢」などの地名がみられます。

赤沼集落のはずれは昭和35年の字名改正以前は大字安野呂村(現字滝野)だったようです。大字安野呂村に属する「稲荷屋敷」、「シトンドシ」、「徳三郎岱」などの地名が赤沼集落の東端にあります。

昭和23年航空写真で見る赤沼集落

昭和23年航空写真と赤沼集落

昭和23年米軍撮影航空写真に旧地名を重ねました。河川改修以前の厚沢部川は大きく蛇行し、現在、町営住宅が立ち並ぶ赤沼集落南側の低地には河道があることがわかります。赤沼の語源に「アカ・ヌプ」(尾根の・(間の)原野)を充てることも、さほど無理のあることとは思えませんが、一方で決め手に欠けることも確かです。


クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 記事 は クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。

厚沢部町字新栄に残る「館」地名と謎の「ロクロ場」

厚沢部町字新栄の旧字名は大字館村「館ノ下」、「館ノ沢」、「館ノ岱」、「館越」、「ロクロ場」です。これらの地名は、ともに厚沢部の歴史にに関わる重要な意味があります。

館地名の由来

厚沢部町の館地域には、明治元年(1868)、松前藩によって「館城」という城郭が築かれました。「館城」は、「やかたじろ」という城郭用語があるため、「やかたのようなお城」と誤解されることもありますが、松前+城=松前城と同じく、地名+城で生じた名称です。なお、地元の方は「たてしろ」と呼称することが多いのですが、これは重箱読みを嫌ったものと思われます。公式な読み方は「たてじょう」です。回りくどくなりましたが、もともと「館(たて)」という地名が館城築城以前にあったということです。

館地名の初出

館地名の初出は「元禄13年檜山絵図」です。ヒノキアスナロ山の現況を記した絵図で、ヒノキアスナロ伐採に関わる集落や沢名が記載されています。本絵図は原本が所在不明で『続上ノ国村史』掲載図によってその内容を知ることができます。

新栄にあった中世館跡

『北海道旧纂図絵』巻7(函館市中央図書館デジタルアーカイブより取得)

新栄には中世館跡があったことが知られています。『北海道旧纂図絵』(函館市中央図書館所蔵)には「北海道十七ケ館第十四 国分館」の項があります。引用します。

桧山郡館村より午の方三町隔て古名厚沢部といふ小丘にして風景 文安四丁卯年四月館権太郎源頼重(村上政儀の臣なり)江三郎義盛(村上政儀の臣 館頼重舎弟也、義盛長禄三己卯年夏六月二十六日夷賊のため上国村川原出をいて戦死) 二世江口民部焏(幼小太郎 義顕永正八辛未年夏四月十六日亀田郡志苔村にをいて蝦夷賊流矢の為戦死) 三世權顕幼小三郎顕輝(初め伯父館頼重跡継後干舎兄義顕の養継と成る)永正十癸酉年夏六月二十七日顕輝村上三河守政義相原周防守政胤 倶に松前郡大館蝦夷賊のために兵卒まで以上二十余人戦死後干此の国分館權頭輝顕跡目女留るに依て廃滅子孫は桧山郡江差港漁富長者江口重右衛門といふ

要点は次のとおりです。

  1. 館村から「午の方三町」のところに小丘陵があり、そこが「国分館」の場所だ。
  2. 文安4年(1447)に村上政儀の家来である館権太郎源頼重と、その弟の江三郎義盛が初代の館主である。
  3. 義盛は長禄3年(1459)に夷賊のため上ノ国村川原出にて戦死
  4. 二世は江口民部丞で、永正8年(1511)に亀田郡志苔村にて戦死
  5. 三世顕輝は永正10年(1513)に村上政義や相原周防守とともに松前大館にて戦死
  6. 顕輝には跡継ぎがなく、女子ばかりだったため廃嫡となった
  7. 子孫は江差の江口重右衛門という

国分館は15世紀中頃に築城され、館主は3代にわたりましたが、16世紀初頭の戦乱で館主が失われたため廃城となったと読み取ることができます。また、「館村より午の方三町」という位置は、当時の館村(現南館町)から南へ約300mですから、辻褄があいません。可能性として、現在の新栄集落から南方300mということなのかもしれません。

松浦武四郎の記録による中世館跡

松浦武四郎が厚沢部を訪れた弘化3年(1846)と安政3年(1856)の記録には、館村に館主のような豪族がすんでいたことが伝承として残されていたことを書き記しています。以下は弘化3年の『再航蝦夷日誌』(1970 吉田武三校註『三航蝦夷日誌』上巻,吉川弘文館)の記載です。

館村 むかし此の村に酋長壱人居住せし由申し伝ふ

「酋長」が館村に住んでいたとの伝承があったことがわかります。

安政3年(1864)の『廻浦日記』(2001 高倉新一郎『<安政三年>竹四郎廻浦日記』上,北海道出版企画センター,2001復刻版)では次のような記載があります。

又左りの方に行や此辺土地余程開け畑多く、人家も沢山有るよし。惣名を館と云と。むかし古城が有しに依て号るとかや。

館村の風景として土地が開け、畑や人家も多いことが記され、村名の「館」とは古い城があったために名づけられた、と述べています。

埋蔵文化財包蔵地国分館跡

昭和45年に行われた厚沢部町埋蔵文化財包蔵地の所在調査では、新栄にある国分館跡の踏査が行われ、陶器片が採集されています。現在、国分館跡は埋蔵文化財包蔵地として包蔵地台帳に搭載されています(C-03-16)。同時にこの場所は、松前藩安政年間に設置した開梱役所に荷揚げをした「ロクロ場」であるという伝承が残されています。

国分館跡、「ロクロ場」は厚沢部川に面した小丘陵です。

国分館跡全景(2019年4月14日撮影)

「館ノ下」、「館ノ沢」、「館ノ岱」、「館越」そして「ロクロ場」

昭和35年に行われた字名改正の対照表(『檜山郡厚沢部村字名改正調書』)から館地名に関わる「館ノ下」、「館ノ沢」、「館ノ岱」、「館越」の範囲と「ロクロ場」の範囲を拾いました。

館地名とロクロ場

国分館跡を取り囲むように「館ノ下」が分布し、国分館跡の脇を流れる館川に沿って「館ノ沢」が広がります。国分館跡北側は字鶉へ通じていますが、そこには「館越」があります。「館ノ沢」と厚沢部川に挟まれた台地(「新栄」という表記があるところ)は「館ノ岱」です。国分館跡の周辺に館地名が分布していることがわかります。なお、国分館跡のある小丘陵の旧字名は「丸山」です。

国分館跡の南東側には「ロクロ場」地名が広がります。

ロクロ場

「ロクロ場」は、安政年間に館村に設置されたとされる開墾役所に物資を荷揚げした場所と伝えられています。ロクロ場の跡とされているのは国分館跡と同じ小丘陵で、東側は道道 29 号によって切り崩されていますが、かつては開墾役所のある段丘面と尾根で繋がっていたと推測されます。

2019年の調査では、厚沢部川から丘陵上へ上がる古い道跡が見つかりました。

ロクロ場の位置と道跡

丘陵頂部は昭和40年代に農地造成されましたが(地権者らの聞き取りによる)、この道は農地造成に伴い丘陵頂部では埋められています。道の構築年代ははっきりしませんが、昭和13年生まれの地権者が幼少の時分から道跡があったと証言しています。また、子ども時代に付近を遊び場所としていた地域住民からは「改善センターへ上がる道を少し上がったところの右手の藪の中に石のお堂のようなものや墓石のようなもの、茶碗のかけらが落ちていた。」との証言を得ています。私は、この道は厚沢部川から「ロクロ場」への荷揚げに伴うものと考えています。

ロクロ場に残る古い道跡

新栄に残る「館」地名とロクロ場

新栄の館地名とロクロ場は、もともと同じ小丘陵を指していたものと考えられます。中世の館跡と幕末の荷上場が同じ場所だったというのは偶然ではなく、ともに必要な地理的要件を満たしていたと考えられます。例えば、厚沢部川を利用した水運の便などがそうした地理的要件の一つでしょう。ロクロ場は厚沢部川を遡上してきた川舟が荷揚げした場所と伝えられていますから、荷揚げに適した場所だったのでしょう。開墾役所のある台地と尾根でつながっていたことも重要だったと考えられます。こうした地形的要件が中世館跡と幕末の荷上場の共通の立地要件だった可能性があります。

国分館跡もロクロ場もその実態はわからないことが多いのですが、館地名発祥の地として重要な場所であることは間違いありません。調査を続けて、いずれ実態を解明したいものです。


2022年5月15日訂正 図中の文字を修正:開梱役所→開墾役所

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 記事 は クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。

古写真で見る厚沢部町本町市街地の変化

国道227号周辺の厚沢部町本町は、昭和35年の字名改正までは、大字俄虫村に属しました。明治時代の初めまで「俄虫」といえば、今の上里が中心でした。明治19年の鶉山道開通をきっかけに、現在の国道227号沿いに市街地が形成されていきました。

以下に掲載した写真は2016年撮影写真を除き全て白黒写真ですが、COLORIZE.で色つけをしています。

昭和35年本町市街地

昭和35年撮影本町市街地(江差方向)

昭和35年の本町市街地は、まだ舗装化が進んでおらず、古い家並みが見られます。 手前右側の2階建ての和風建築は老舗の大山旅館です。その奥にパチンコ店の看板がかかっている建物は「宮本酒店」です。「千歳鶴」(縦書き)、「きそば」(横書き)の看板のかかっているお店が、現在では国道を挟んで斜め向かいに移転している、前井食堂です。 前井食堂の奥に建物が2つみえますが、マルハチ高田呉服店をはじめ、いくつも店舗が入っていました。

写真右の手前から4本目の電信柱のところは、現在の本町三叉路で、右側が新町商店街です。 画面奥の突き当りに切妻屋根の妻側を見せている店舗は「ヤマコ小林商店」(酒屋)、その奥にある背の高い切妻屋根は「富吉」という精米所だったそうです。

昭和37年本町市街地(江差方向)

昭和37年撮影本町市街地(江差方向)

昭和35年写真とほぼ同じアングルで2年後に撮影された写真です。わずか2年の違いですが、道路がアスファルト舗装されていますし、立ち並ぶ建物にも変化が見られます。「人の出入りが激しく、同級生もずいぶん変わった」と本町で育ったOさんが教えてくれました。

宮本酒店があった二階建ての和風建築は外壁が改装され、「函館木工」になっています。函館木工は、函館市内にあった函館木工の社員だったIさんが、昭和37年に結婚を期に厚沢部在住となったことから、支店が開かれたそうです。この写真が撮影されたのは昭和37年ですから、写真に見えるのは、開設されたばかりの函館木工厚沢部支店ということになります。

一番手前の「進藤金物店」は土間床で、平らな床ではなく、厚沢部川の方向に地形なりに下っていくような床だったそうです。前出のIさんによると、店の奥にはフイゴもあったということですから、もともと鍛冶屋さんだったと思われます。

森藤旅館

森藤旅館は厚沢部の老舗旅館です。大正時代から現在の場所にあります。なお、厚沢部市街地で100年以上同じ場所で営まれている店舗は、森藤旅館、山田理容店、中島商店の3店舗です。

昭和35年及び37年写真撮影位置と森藤旅館

森藤旅館は国道拡幅のため、敷地が大きく減少しましたが、かつては現在の倍ほどもあったといいます。また、江差町側に隣接する「須藤商店」という駄菓子屋の店舗敷地も買い取って、建物を増築したといいます。建物全体は「コの字」状に配置され、中庭があったそうです。

総2階建で、2階の座敷は30数畳あり、隣の20数畳の座敷と合わせると盛大な結婚式を行うことができたそうです。総2階の建物の一部を3階建てとしており、ここは6畳ほどの部屋が一つ作られていました。昭和35年写真でひときわ高くそびえる切り妻屋根がこの3階部分です。2階の広間で結婚式を終えた新郎新婦が、この部屋で一夜を過ごしたといいます。「超スイートルーム」と言えるでしょう。森藤旅館の3階の部屋は今の役場のあたりからでも見えたといいます。

3階のスイートルームで教育委員会が開催されたことがあったとも言います。教員の処分に反対する組合員に教育委員会を妨害されることを防ぐため、役場庁舎ではなく、この部屋で隠密に開催しようとしたことがあったようです。

昭和37年本町市街地(函館方向)

現在の「福島モーター」さんのあたりから函館方向を撮影した写真です。

昭和37年本町市街地(函館方向)

画面に映っていない左側には役場庁舎がありました。現在の「まちなか交流センター」です。手前左手には現在も店舗が残る「ささき自転車店」があります。手前右手には駐在所があります。

駐在所の奥は「カネシンストアー」という雑貨屋さんがありました。その奥は現在の前井食堂ですが、この時期にはまだ倉庫が建っていました。画面右手の鍛冶屋さんは現在の「須藤金物店」、奥には「湯田呉服店」などが見え、現在は新町商店街に移転した小売店が国道沿いで営業していました。

画面奥のカーブのところは現在は農協のガソリンスタンドですが、この当時は農協店舗(ACCOOP)がありました。写真には写っていない農協店舗の反対側には、現在は「能登谷建設」の社屋がありますが、ここに農協の事務所がありました。

大正14年本町市街地(函館方向)

大正14年本町市街地(函館方向)

昭和37年本町市街地(函館方向)とほぼ同じアングルの大正14年撮影写真です。この写真が撮影されたのは、「忠魂碑のお祭り」のあった8月15日です。撮影年月日が分かる稀有な古写真です。

道の両側に電力柱がみえます。俄虫郵便局長だった関川盛の尽力で、大正13年に俄虫市街地の電化がなされています。写真に見える電力柱は設置されて間もないものです。

現在の本町市街地

大正14年写真と同じ位置から撮影された現在の本町市街地(2016年11月17日撮影)

現在の本町市街地には「商店街」の風情はありません。国道の拡幅により、自動車の交通量が増え、スピードも増しています。商業の中心は新町商店街に移っています。その新町商店街も店舗の衰退が続いています。

厚沢部町本町は、函館と江差をつなぐ国道227号の交通によって市街地が形成されました。昭和50年代までは役場が置かれ、郵便局、警察署が並ぶ厚沢部町の中心街でした。一方、増加する自動車の交通は、本町市街地を住みづらい場所に変えてしまいました。幅広い道路は車の通行には便利ですが、人が往来するには不便なものです。交通の発展によって開けた市街地が、交通の発展によって衰退していくというのは皮肉なものですが、こうした市街地の変化も町の生態系の歴史です。このような変化を地道に記録し続けるとともに、過去の写真を読み解き、町の歴史を探る工夫を続けていきたいと思います。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 記事 は クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。

厚沢部町「土橋(つちはし)」の語源

土橋村の草分けとヒノキアスナロ

北海道厚沢部町字富栄の旧大字名は土橋村です。延宝6年(1678)に喜三郎が津軽から移住したのが草分けと言われています(『青江理事官諮問回答書』)。延宝6年は『福山秘府年歴部』の延宝6年の項に「この歳初めて、山人をして西部阿津左不山中の檜樹を伐らしむ」とあるように、厚沢部山でのヒノキアスナロ伐採が始まったとされています(1991『新撰北海道史』第5巻,復刻版,p38)。辻褄が合いすぎているようですが、土橋村の始まりが、ヒノキアスナロ伐採と関連をもっていることを含意して伝えられてきたことを示していると言えるでしょう。土橋村はヒノキアスナロの分布北限に位置します。

土橋村の位置とヒノキアスナロの分布

エゾ村と土橋村

文献に土橋村が現れるのは意外に遅く、文化3年の蝦夷地の剣舞録である『遠山村垣西蝦夷日記』(国立国会図書館所蔵)の厚沢部川流域の見聞録です。俄野村、安野呂村、ウグイ川村などとともに「土橋村」の記載があります。

土橋村付近では緑町にあったと考えられる「エゾ村」の記録がみられます。寛文10年(1670)に蝦夷地を調査した津軽藩の記録、『津軽一統誌 巻第十』(1969『新北海道史』第7巻史料1,p191)に「あっさぶ村 川有 しやも狄共に入交り」が、文献における厚沢部の初出ですが、後の「エゾ村」の原風景が記録されています。

『福山秘府諸社年譜並境内堂社部(巻12)』(前掲,p115)には「アツサフ 蝦夷村」に稲荷社が建立されていることが記されます。この蝦夷村は松浦武四郎安政3年の見聞を記した『廻浦日記』(2001『竹四郎廻浦日記』上,復刻版,pp-238-239)でハタナイサワ近くにあったと記録される「蝦夷村」と同じ集落を指すのかもしれません。

松浦武四郎『廻浦日記』にみる蝦夷村と土橋村

『廻浦日記』の記述は次のとおりです。

土橋村 人家四十軒斗彼方此方に散落したり。村内鎮守八幡宮、祭礼八月十五日。同じく観音寺持也。是よりまた上がるに、右の方山に沿て、 ハタナイサワ 蝦夷村 等こへて、川岸に同じく傍て上がる事七八丁にして、 大川

記述順は、川下から川上へと移動していきます。すなわち、土橋村を過ぎて右の山手に「ハタナイサワ」と「蝦夷村」が現れ、「七八丁」で「大川」に達するとされます。この場合の「七八丁」は土橋村からの距離と思われます。

「ハタナイサワ」はレクの森を流れる川が畑内川として知られています。畑内川を越えた厚沢部川の上流側(畑内川の右岸)に蝦夷村があり、さらに進むと「大川」すなわち、厚沢部川本流に達すると、武四郎は記述しています。

土橋村の位置とハタナイサワ、エゾ村

なお、土橋村の村内鎮守は八幡宮との記載がありますが、現在の富栄集落の氏神神明神社(祭神天照大神)です。

字富栄神明神社

「土橋」の語源

土橋村の語源として注目すべきは、かつて土橋村は「ドンバ」と呼ばれていた可能性を示唆する文献があります。渋谷道夫が1965年に行った調査の中で次のような記載があります(渋谷道夫「厚沢部川流域の鹿子踊と杵振り舞について」『日本民俗学会報』第38号,日本民俗学会,pp.41-58)。

厚沢部川流域では、土橋と柳崎が土場であったため「ドンバの鹿子」と呼んでいるが、他の部落では、旧部落名をつけた「安野呂の鹿子こ踊」というように呼んでいる (p42)

江差町字柳崎が「どんば」と呼ばれていたことはよく知られていますが、土橋が「どんば」と称されていたことはあまり記録に残されていません。

「トンバのししこおどり」という表現も紹介されています(北海道教育委員会1987『北海道の民俗芸能』p46)。

結論を急ぐことは慎まなければなりませんが、「土橋」の語源は「どば(土場)」だった可能性が考えられます。 「どば」→「土橋(どばし)」→「つちはし」のような漢字の読みを媒介に転訛した可能性を考えておきたいと思います。 似たような例として「つきさっぷ」→「月寒」→「つきさむ」があります。 あまり釈然としませんが、土橋の語源に関わる仮説の一つとして提示しておきたいと思います。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 記事 は クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。

科学の力が解き明かす館城のすがた〜金属探査編〜

この記事は、2022年3月26日に開催した「あっさぶ郷土学講座」の配布資料をもとにしています。令和3年8月に行った、館城跡の礎石建物の周辺で金属探査やレーダー探査、磁気探査などの地下探査のうち、金属探査について記述します。

探査領域は藩主の住宅を含む館城の重要な建物群と推測され、過去の調査では釘や鎹等の金属製品が出土しています。金属反応の分布やレーダー探査、磁気探査の結果から、これまで知られていなかった館城御殿の姿が浮かび上がってきました。

館城と松前城

松前藩明治元年(1868)に、長く本拠地としてきた松前城から移転し、内陸の館村に新しい城郭を築きました。この背景には、安政2年(1855)の箱館開港や、同6年の蝦夷地「六藩分知」がありました。本州と蝦夷地の交易に依存する松前藩の経済が成り立たなくなり、海に面した松前ではなく、水田稲作に適した館村に新たな根拠地を築いたと考えられます。

海沿いの松前城と内陸の館城

正議隊のクーデータと箱館戦争

正議隊のクーデター

明治元年、7月28日、「正議隊」と名乗る藩士たちが松前城に登城し、藩主徳広に「正議隊建白書」提出しました。徳広に対する正議隊の説得は厳しく、長時間の拘束の結果、徳広は建白書を受け入れました。こうして藩主の後ろ盾を得た正議隊は、松前勘解由らの追討を開始しますが、当初は兵力不足で勘解由らを討つことはできませんでした。8月1日に江差奉行の尾見雄三が江差在中の藩士を率いて到着したため、正議隊は形勢を立て直すことができ、8月3日の松前勘解由切腹から約1ヶ月にわたって重臣らの粛清を行いました。館城の築城は、一連の粛清が終了した9月1日からはじめられました。

築城願書

明治元年11月7日、松前藩は新政府に対して館城の築城願書を提出します。この時、すでに館城の築城は開始されていますが、書面による築城許可を求めたものです。願書の中で述べられている館城築城理由の概略は次のとおりです。 1. 近年は大きな戦闘艦が来航し、松前城も危険にさらされるようになった。 2. 厚沢部の館村は川と山に囲まれた天然の要害である。 3. 拓地勧農も将来は進むことが見込まれる。 4. 箱館奉行所へも陸路で近く、箱館で万が一のことがあれば、すぐに駆けつけることができる。

館城築城工事

  • 9月2日  館村へ遠眼鏡を送る
  • 9月14日  大工40人、木挽10人が館村へ
  • 9月21日  福山の大工棟梁孝次郎以下、大工28名が江差に到着
  • 9月23日  9月12日以降の人足延べ人数1,525人工に達する。大工40人、木挽10人が館村へ出立
  • 9月21日  福山の大工棟梁孝次郎以下、大工28名が江差に到着
  • 9月23日  9月12日以降の人足延べ人数1,525人工に達する
  • 10月14日 建具師3人館村へ向かう
  • 10月16日 間似合、唐紙、玉子が館村へ
  • 10月24日 棟上げの儀
  • 10月26日 三上超順、鈴木興之丞が木間内へ出張

攻め寄せる旧幕府軍

明治元年10月21日に森町鷲ノ木に上陸した旧幕府軍は、七飯峠下や大野村で待ち受ける新政府軍を撃破し、10月26日に五稜郭に入城します。これにより、蝦夷地南部の新政府勢力は松前藩を除いて一掃されますが、松前藩はかたくなに抗戦の意志を見せたため、旧幕府軍は海沿いと内陸の2方向に部隊を派遣しました。11月5日に松前城が落城し、松前藩の拠点は江差と館城が残されるのみとなりました。箱館五稜郭から鶉山道を進む松岡四郎次郎率いる幕府一聯隊は、11月12日に稲倉石を突破し、11月15日に館城攻撃を行います。館城はわずか1日の戦闘で落城します。同日、江差が開陽丸から上陸した旧幕府軍に占領されると、松前藩の組織的抵抗は終了しました。

明治元年箱館戦争主要戦場と松前藩戦没者

落城後の館城

落城後の館城は、再建されることなく現在にいたります。明治21年に館村鷲の巣(現厚沢部町字富里)に入植した二木小児郎は、門柱の焼け跡や礎石が散乱する様子を書き残しています。二木が書き残した館城は次のような情景です。

  • 80間四方の堀の跡
  • 古井戸18〜19箇所
  • 正面表門の位置には門柱の焼け残り2基
  • 内庭には家屋建築物の礎石数百個散乱

館城御殿と築城図

過去の調査によって館城には礎石が良好に残っていることが確かめられています。また、厚沢部町郷土資料館所蔵の『館築城圖』 *1 には、館城の御殿と思われる建物の平面図が描かれており、現地に残る礎石と一部はよく一致することもわかっています。

増田家文書『館築城圖』(厚沢部町郷土資料館所蔵写本)

金属探査

調査の目的

『館築城圖』に描かれた建物がどの程度完成していたのか。それぞれの部分がどのような機能をもっていたのかを推測するために、残存する金属製品の分布把握を目的として、金属探査を実施しました。

調査の方法

金属探査に使用した機材はホビー用の金属探知機(商品名「GC-1072 Metal Detector」)です(約7,000円の廉価機種)。事前のテストでは、ミニエー銃弾、硬貨(1円、10円、100円)には距離10cm以内で的確に反応することを確かめました。

金属探査の実施状況

金属反応の分布

調査区の北東部、南東部、南西部の3箇所に金属反応の集中域が確認できます *2厚沢部町教育委員会の平成21年の調査により、探査区域には2棟の建物が存在すると推定されています。2つの建物に挟まれた領域は金属反応の分布が少ないことがわかります。また、東側建物の南北に高密度の反応分布があります。平成21年度の礎石調査でも東側建物周辺で多くの遺物が出土しており、過去の調査結果とも矛盾しません。

金属反応とカーネル密度推定による等密度線

金属反応のポイントパターン解析

金属反応の分布はいくつかの密集区域がみられます。

ポイントの密集が偶然に生じるパターンではなく、何らかの構造を反映し、関連をもつことを表現するのに利用されるのがK関数と呼ばれる統計量です *3

エンベローププロットは、K関数を1000回算出するシミュレーションを行った場合の結果と、実際の値を比較したものです *4 。 半径約1.5m以上で、実測値>理論値となっており、何らかの要因(たとえば過去に存在した建築物)によって、偶然とは言えない金属反応の密集区域が存在することを示します。半径が10mを超えると分散傾向に転じ、半径約13m以上で実測値<理論値となり、明確な分散傾向を示します。これは、金属反応同士が接近せず、離れて分布する傾向があることを意味します。つまり、金属反応の分布が複数の密集区域に分かれることを裏付けています。

金属反応分布のエンベローププロット

金属反応と建物

金属反応の集中は建物の北東部と南西部、南東部にみられます。北東部は、『館築城圖』における「御末女中部屋」、「御乳御抱部屋」、「御次」など、藩主家族に仕える女性たちの空間です。 南東部は「御寝所御居間」、「御仏間」、「内縁」など藩主の日常生活空間に相当します。同様に南西部は「御近習頭」、「下御台子間」、「奥御納戸」など、中〜上級藩士らが日中所在する空間です。

金属反応の実態は、釘・鎹などの建築資材、什器類に付属する金具、刃物などの道具類と考えられます。したがって、その分布は建物の完成度や内部空間の整備度合いを反映していると考えられます。

金属反応分布と『館築城圖』

奥御殿女中部屋付近の金属反応

奥御殿藩主居室付近の金属反応

常御殿納戸付近の金属反応

まとめ

金属反応は3つの大きな密集区域があることがわかりました。『館築城圖』を参考にすると、それは、1)藩主家族に仕える女性の活動空間、2)藩主の生活空間、3)中〜上級藩士らの日中の活動空間です。こうした領域に金属反応の密集がみられることは、これらの領域が館城築城において優先的に仕上げられ、什器類の搬入が行われた可能性を示しています。こうした仮説を検証するためには、今後の発掘調査の成果を待つ必要があります。

地下探査の魅力

発掘調査は「何が」「どこに」あるのかを突き止めるもっとも確実な方法です。「動かぬ証拠」を見つけ出す強力な手法ですが、貴重な遺跡の破壊をもたらすものでもあります。その性質上、発掘調査は1度きりしかできません。同じ発掘調査を2回行うことや発掘調査成果を後日検証することは極めて困難です。

地下探査は直接対象を観察したり、触れたりすることができません。探査結果を「動かぬ証拠」と言い切ることは難しいものです。しかし、条件を変えて何度も実施したり、後日、その成果を検証することが可能です。「検証が可能である」ということは、科学にとって非常に大切なことです。地下探査は検証する余地が残されているという点で、考古学の科学的なアプローチには不可欠な作業です。

地下探査の魅力は次の3点です。 1. 目には見えないものを見ることができる 2. 遺跡を壊さず、地下の様子を見ることができる 3. 何度でもやり直せる

これからの遺跡調査は、まず地下探査によって遺跡を壊さずに多くの情報を収集し、それらの情報を元にもっとも効率的な発掘調査方法を定め、地下探査の結果を発掘調査によって検証することが主流になっていくでしょう。そのような調査手法をとることによって、遺跡の破壊を最小限にとどめ、遺跡についてより多くの情報を集めることができるようになります。破壊調査である発掘調査と、非破壊調査である地下探査のバランスが、今後の考古学研究には求められていくと考えられます。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 記事 は クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。

*1:『館築城圖』は江差の豪商増田家に残された文書類(増田家文書)に含まれる館城の奥御殿及び常御殿を描いたと思われる平面図である。2022年現在、原本は確認できず、厚沢部町郷土資料館所蔵の写本を使用した。描かれた平面図は、現地の礎石配置とは部分的によく一致するが、図面全体として現地の礎石配置とは一致しない。

*2:金属反応のカーネル密度推定にはGRASS GIS version 7.8.2 のv.kernelコマンドを使用した。radius=7mである。作成した密度ラスタからr.contourコマンドにより、0.2ステップの等密度線を生成した。

*3:K関数により算出されるK統計量は、任意の金属反応の周辺に完全空間乱数(complete spatial randomness)と呼ばれる状況を生成し、当該完全空間乱数を生成する半径における理論的なK統計量と実測されるK統計量の差を比較し、実測値>理論値ならば、その半径距離内では、偶然とはみなせないポイントの集積が生じている可能性が高いと判断する。逆に実測値<理論値ならば、ポイントは他のポイントを避けるように分布する可能性が高いと判断する。完全空間乱数を発生させる半径を徐々に増加させることで、領域の面積に応じた空間集積の状況を明らかにすることができる。

*4:ポイントパターン解析にはオープンソースの統計解析環境R version 4.1.1を使用した。K統計量の算出及びシミュレーションは、Rの空間解析パッケージであるspatstat version 2.2を使用した。エンベローププロットの作成はggplot2 version 3.3.5を使用した。

鶉川ゴヨウマツ自生北限地帯でゴヨウマツを確認する

2022年3月27日の踏査

前回の3月12日の踏査では、ゴヨウマツらしき針葉樹が低い尾根に存在することを確認しましたが、尾根を降りて接近すること無く引き返してきました。 今回は、尾根を下り、遠くに見えていた針葉樹に接近してみました。

指定範囲の手前の尾根を降りる

今回降りた尾根は、指定範囲のかなり手前の尾根です。赤いラインが前回の踏査ルート、青いラインが今回のルートです

踏査ルート(青いライン)

尾根のはるか下に丈の低い針葉樹が見えます。今回の目標はここです。

遠くに見える針葉樹

尾根を降りるのは勇気がいります。降りと登りでは難易度が異なるので、降れたところを登り返せるとは限りません。残雪期の雪はアイゼンも効きにくく、急斜面ではジタバタとあがくだけということにも成りかねません。

尾根を降りる

針葉樹

尾根をかなり下ったところで、丈の低い針葉樹が見えました。

低い尾根の針葉樹

近づいてみると・・・トドマツでした・・・

トドマツ

さらに進むと、トドマツとは異なる樹形の針葉樹が見えます。

残念ながら、イチイのようです。

イチイ

まとめ

今回の踏査では、前回の踏査で発見した低い尾根の針葉樹にアプローチしてみましたが、いずれもゴヨウマツではありませんでした。 今回の踏査ルートは指定範囲から外れています。次回はおそらく来年になると思いますが、指定範囲の尾根を降りてみたいと思います。

2022年3月12日の踏査

厚沢部町鶉川上流の鶉川ゴヨウマツ自生北限地帯は国の天然記念物です。林道から見上げると尾根にマツが点在しています。

林道から見上げる鶉川のゴヨウマツ

以前「鶉川のゴヨウマツはどこにあるのか?」という記事で尾根上からはゴヨウマツが確認できなかったことを書きました。今回は「ゴヨウマツは尾根の上」ではなくて、もっと低い位置にあるのではないかと考え、尾根を降りてみることにしました。

今回の踏査ルートはこんな感じです。国道227号から尾根にとりつき、北限地帯指定エリアに入ったところで、尾根を下ってみました。

踏査ルート(背景地図は国土基本情報基本項目とOpenStreetMap

腐った雪の上を行く

尾根の取り付きはザクザクに腐った雪です。傾斜はさほど急ではないもののカンジキが雪にとられて歩きにくかったです。

尾根に上がる

標高を上げて稜線に出ると気温が低いため、雪も固くしまって歩きやすくなりました。雪庇を踏み抜かないように注意して歩きます。

稜線を行く

稜線を起点として雪崩が発生していました。

さらに高い尾根の上は平坦で、スノーモービルの痕があります。

ゴヨウマツを発見

尾根を少し下ると東側の険しい尾根にゴヨウマツが見えました。尾根の上からは見えない位置です。

鶉川のゴヨウマツ

撮影位置は下の地図の地点で、ここから東方向を撮影しています。

さらにもう一つの枝尾根を降りるとその先にもゴヨウマツが見えました。

撮影位置は下の地図の地点でここから、北東方向を撮影しています。

ゴヨウマツの自生位置

ゴヨウマツは天然記念物指定範囲の中でも鶉川に沿った険しい尾根上に位置しているようです。残念ながら私の登山技術ではゴヨウマツの生育地点まで到達することは難しそうです。 今回確認したゴヨウマツの生育地点はおよそ次の位置になりそうです。

ゴヨウマツ生育地

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 記事 は クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。

雪で折れた見出しの笠松

2022年2月17日、厚沢部の本町にある見出しの笠松の太い枝が、雪の重みに耐えきれず折れてしまいました。 見出しの笠松は昭和48年3月17日に指定された北海道記念保護樹木です。

f:id:ishiijunpei:20220224082257j:plain
見出しの笠松

近づいてみると、太い枝が折れているのがわかりました。

f:id:ishiijunpei:20220224082404j:plain
見出しの笠松の折れた枝

かなり高いところから折れたようで、人や道路に損害がなかったのが幸いです。

f:id:ishiijunpei:20220224082534j:plain

見出しの笠松

見出しの笠松は、樹齢150年を超えると言われるマツの老木です。 忠魂碑境内の一角にあり、脇をとおる細い道路は、かつて江差と函館を結んだ旧街道の「鶉山道」です。 見出しの笠松は鶉山道の入り口の目印として、また、休息の場所として利用されたと言われています。

明治元年松前藩主徳広が館城へ入城する際にも、鶉山道を利用し、そのときには、近隣の住民がこの松のところで藩主を出迎えたそうです。 明治19年に描かれた『鶉山道図鑑』(第38号)には、ちょうど見出しの笠松の付近から描かれたと思われる図があります。 まだ、俄虫市街地が形成されておらず、画面右のほうに人家が数軒見えるだけの寂しい風景です。

f:id:ishiijunpei:20220224082554j:plain
『鶉山道図鑑』「第三拾八 俄虫村大橋架設測点標之図」

藩主徳広が通った鶉山道もこのような風景だったのでしょう。 藩主が見出しの笠松の下を通って館城へ向かった様子は、次のように伝えられています(『厚沢部町史桜鳥』1巻,p428)。

殿様が俄虫の私場をわたって、かごで太鼓山を登っていくのを見ました。四つのときで、きかん坊であったし、道端で部落の人たちがみんな手をついて平伏しているのに、ボーッと立っていたら、母がわたしの頭をおさえて、頭をさげるんだよと、むりにさげさせられたことを覚えていますね

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 記事 は クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。