厚沢部文化遺産調査プロジェクト

北海道厚沢部町の文化遺産や歴史、自然について紹介します。

檜山農事試作場とあっさぶ市街地の成り立ち

現在の厚沢部町市街地は、かつての檜山農事試作場跡地に広がっています。この試作場で行われた馬鈴薯の栽培試験の結果、メークインが檜山の推奨品種となり、現在の厚沢部農業の中心とも言えるメークイン栽培につながっていきます。 昭和37年の農事試作場閉鎖とその後の市街地形成を航空写真と町内に遺る痕跡から探ります。

旧公民館跡地と農事試作場

新町市街地線の拡幅工事にともなって、旧公民館跡地の樹木の伐採などが行われています。大きな庭木は檜山農事試作場時代からのものです。大正年間に檜山農事試作場4代目所長を務めた有賀文平が農事研究生に植えさせたものだそうです。

工事が進む公民館跡地
工事が進む公民館跡地(2014年11月27日撮影)

厚沢部公民館は檜山農事試作場の跡地に建てられ、農事試作場庁舎の庭木などはそのまま公民館の庭木として利用されています。市街地の中心部付近に鬱そうとした森のような景観が、かつての檜山農事試作場の面影を残しています。

2014年11月頃から行われた新町市街地線の拡幅工事に伴って、公民館跡の塀の撤去作業が行われました。塀に埋め込まれていた「厚沢部公民館」の題字が工事関係者のご厚意で郷土資料館へ持ち込まれました。題字の揮毫者は厚沢部公民館建設当時の教育長だった滝田忠四郎さんだそうです(新町在住石川三郎氏のご教示)。厚沢部公民館の名残を示す貴重な資料として郷土資料館に収蔵されています。

厚沢部公民館の題字
厚沢部公民館の題字

農事試作場跡地に広がった厚沢部の新しい街

檜山農事試作場が昭和37年に閉場されると、その敷地は厚沢部村や厚沢部農協に払い下げられました。

厚沢部公民館は、払い下げ翌年の昭和38年に着工され、翌昭和39年に完成しました。厚沢部町史『桜鳥』では「明るく豊かな住みよい町づくりの一翼を担う町民研修の殿堂」と、厚沢部公民館への大きな期待を表しています。総工費は860万円で、当時の厚沢部町一般会計(9千8百万円)の1割に近い金額でした。今の町財政でいうと3億円から4億円ぐらいの感覚でしょうか。

現在、公民館があったことを示す遺構はすくなく、唯一、公民館設計者の川嶋竜司氏のデザインによるオブジェが残されています。向かい合う親子を表現したものだそうです。

公民館跡地にのこるオブジェ
公民館跡地にのこるオブジェ

厚沢部公民館を皮切りに、檜山農事試作場跡地には、保育所や町営住宅などの主要施設が次々と作られていきます。一面の農地だった檜山農事試作場跡地はこうして、私たちがよく知る厚沢部町中心市街地へと生まれ変わっていったのでした。新しく生まれた市街地を先取りして昭和35年の字名改正でこの地域は「新町」と名付けられました。

昭和23年撮影航空写真からみる農事試作場

図\ref{fig50}の航空写真は、昭和23年にアメリカ軍が撮影した厚沢部市街地の様子です。厚沢部小学校は今の位置にあります。また、「農事試作場庁舎」が今の江差信金(現道南うみ街信金)厚沢部支店のあたりですから、位置関係をつかんでいただけると思います。

昭和23年の厚沢部町新町市街地周辺

現在、役場や消防、保育所、町営住宅などが立ち並ぶ町の中心地区は、原種農場だったことがわかります。農事試作場が、厚沢部市街地の原点になっていることがとてもよく分かる航空写真です。


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