厚沢部文化遺産調査プロジェクト

北海道厚沢部町の文化遺産や歴史、自然について紹介します。

厚沢部のアイヌ語地名解

桜鳥説

「あっさぶ」の語源は、「ハチャム・ベツ=桜鳥・川」と言われています(永田1892)。町史のタイトルが「桜鳥」なのも町名の語源に由来します。最初に「桜鳥」説を唱えたのは教育者として知られる永田方正という人物です。永田は著者『蝦夷語地名解』で「厚沢部桜鳥・川の意なり」とあっさり記述しています。しかし「桜鳥」なる鳥がどんな鳥なのか、実はよくわかりません。ムクドリを「桜鳥」と呼称する地域もあるようですが、果たして永田がムクドリを意図して桜鳥と記載したのかはよくわかりません。

上原熊次郎の「紅粉ヒワ」説

永田に先立つ江戸時代後期のロシア語・アイヌ語通訳の上原熊次郎の『蝦夷地名考并里程記』では「厚沢部 夷語ハチャムなり。則紅粉ひわといふ小鳥に似たる鳥の事にて此沢内におびただしくある故此地名ありといふ」と書きました。厚沢部は蝦夷語でハチャムといい、すなわち紅粉ヒワという小鳥に似た鳥のことで、この沢にたくさん生息するためこの地名があるという、と述べます。

蝦夷地名考並里程記』(東京国立博物館デジタルライブラリーより)

東京国立博物館デジタルライブラリー / 《蝦夷地名考並里程記》

紅粉ヒワという鳥は「ベニヒワ」のことと思われますが、上原は「ベニヒワに似た小鳥」と述べていることから、種を特定できるものではなく、小鳥の名称に由来すると述べているものと考えられます。いずれにせよ、ハチャムというのはアイヌ語で鳥を指すものと理解されています。

オヒョウニレを乾す川

もう一つの解釈として「アツ・サ・プ=オヒョウニレの樹皮・乾す・川」があります。オヒョウニレの樹皮はアイヌの衣装「アツシ」の原料として知られており、道内にもこれを語源とする地名は枚挙にいとまがありません。自治体では厚真町和寒町厚岸町などが「アツ」地名と言われていますし、字名や旧地名を含めればまさに無数の「アツ」地名があります。近世の記録では厚沢部は「あつさふ」、「あつさぶ」、「厚沢部」、「暑寒」などと記載され、「アツ・サム」などが語源である余地も十分に残されています。

更科源蔵は桜鳥説(ハチャム説)を指して「急にこの説は信じがたいものが有り、むしろ率直にアツサプを受け入れた方に真実性がある(更科1966: 18)」とし、「アトサ・プ(裸・もの)」や「アッ・サ・プ(オヒョウ皮・乾す・川)」を候補に挙げています。

寛文10年(1670)のあっさぶ

あっさぶの名前が最初に現れるのは『津軽一統志巻十』(北海道立図書館デジタルアーカイブ津軽一統志巻10下』)です。

津軽一統志巻十』(北海道立図書館デジタルアーカイブより)

「あつさふ村 川有 志やも 狄共に入り交り」という短文です(翻刻, 北海道1969: 172)。あっさふ村、川が有り、和人と狄が共に入り混じって暮らしている、というほどの意味です。

余談ですが、「志やも 狄共に入り交り」のような表現は『津軽一統志巻十』に多くみられるのですが、あっさぶ村より南側ではこのような表現がみられなくなります。『津軽一統志巻十』は、寛文9年(1669)に起こったシャクシャイン戦いの翌年に蝦夷地を偵察した松前藩が残した記録です。つまり、寛文10年時点では、厚沢部周辺がアイヌ居住地の南限だったことがわかります。なお、厚沢部のアイヌ村は安政3年(1856)の松浦武四郎『竹四郎廻浦日記』まで確認することができます。

もっとも古い記録である『津軽一統志巻十』で「あつさふ村」が現在の「あっさぶ」に極めて近い音で標記されていることは、300年以上、「あっさぶ」という音には大きな変化がないことを意味しています。なお近世以前の日本語の場合、「ハ」行の音は英語のFに近い発音なので「あつさふ」と表記された場合「Atsusafu」のように最後の「ふ」が摩擦音化していた可能性が高いと考えられます。また、現在は「あっさぶ」のように「つ」の音が促音化(つまる音)していますが、これももともとのアイヌ語が「at-sam」のように「つ」の音が無声音だったとすれば理解しやすいものです。

旧地名からみるあっさぶ

実は、厚沢部町内の旧地名に「あっさぶ」やそれに類する地名はありません。例えば道北の和寒町は「アツ・サム」を語源とする町名ですが、もともとは「六線川」という小河川の名称でした。このように、地名は発祥した場所が比較的限定されているものなのですが、「あっさぶ」の場合、発祥の地がよくわかりません。

昭和35年発行の『桧山郡厚沢部村字名地番変更調書』にみる厚沢部町の旧字名は273種確認できますが、この中に「あっさぶ」の語源に関係ありそうな地名は見当たりません。地名発祥の地を突き止めることが地名研究の第一歩ですから、「あっさぶ」の語源を突き止めることはなかなか難しい、ということがわかります。

厚沢部村旧字名

[1] "アイノ沢"       "アカハギ"       "アケノ沢"       "アジヤ澤"       "イシナ渕"       "イシナ渕岱"
  [7] "インキョ沢"     "ウグイス岱"     "ガケノ沢"       "カジカ沢"       "カツコ沢"       "カツコ沢中洲"
 [13] "ガロー"         "ガンビ岱"       "キライベツ"     "ザルイシ"       "サンチヤウ流"   "シトンドシ"
 [19] "ソロソロ岱"     "タツナイ"       "タラ岱"         "タンカラ石"     "ツナ澤"         "テスキ岱"
 [25] "トジヤノ沢"     "トワサ岱"       "トワ沢"         "トワ沢口"       "トワ沢岱"       "ナラノキ岱"
 [31] "ナラノ木岱"     "ハゲ沢"         "ハシラミツ"     "ポロナイ"       "ヤチキワ"       "ヨシボリ"
 [37] "ヨシヨシ岱"     "ラントノ沢"     "ロクロ場"       "ヲクニ沢"       "ヲサノ沢"       "意養"
 [43] "一ノ岱"         "一ノ渡"         "一ノ渡上岱"     "一本木岱"       "一本木沢"       "稲荷屋敷"
 [49] "稲荷川原"       "稲倉石"         "押出"           "押出ノ尻"       "下カ沢"         "下タツナイ"
 [55] "下ノ沢"         "下俄虫"         "下俄虫善兵衛山" "下俄虫堂ケ沢"   "下俄虫片原道"   "下松兵衛岱"
 [61] "下滝ノ沢"       "下滝ノ沢口"     "下米揚"         "下目名原野"     "蝦夷岱"         "勘兵衛渕"
 [67] "観音町"         "観音町ムサノ沢" "観音町沢岱"     "館ノ下"         "館ノ岱"         "館ノ沢"
 [73] "館越"           "館越岱"         "館界"           "丸山"           "丸山ノ下"       "丸山下"
 [79] "丸山尻"         "岩渕"           "吉弥沢"         "曲坂"           "曲坂下"         "金堀"
 [85] "源次郎川原"     "古屋敷"         "古佐内"         "古川尻"         "五右エ門谷地"   "五左エ門谷地"
 [91] "五厘沢"         "御蔵岱"         "厚谷澤"         "糠野"           "糠野アカハゲ"   "糠野根子堀"
 [97] "糠野次郎沢"     "高見ノ上"       "高山"           "高山ノ下"       "根符岱"         "坂ノ上"
[103] "三角"           "三角峠"         "三蔵沢"         "三蔵流"         "山崎"           "四隅沢"
[109] "四隅沢口"       "若狭"           "若狭岱"         "手抜岱"         "女ノ越"         "小屋ノ下"
[115] "小屋ノ上"       "小佐内"         "小目名口"       "小鶉"           "小鶉ヨシヨシ岱" "小鶉原野"
[121] "小鶉天作沢"     "小鶉蕨岱"       "庄兵衛沢"       "庄兵衛沢口"     "松ノ木岱"       "松下岱の下"
[127] "松坂澤"         "松阪"           "松兵衛沢"       "沼ノ沢"         "焼山ノ沢"       "焼木尻"
[133] "上ノ山"         "上ロクロ場"     "上俄虫"         "上俄虫九十堀沢" "上館"           "上館原野"
[139] "上館口"         "上女ノ越"       "上桧木沢"       "上米揚"         "上目名"         "上目名原野"
[145] "上鷲ノ巣"       "城ノ岱"         "新渕"           "深沢"           "須賀"           "須賀ノ沢"
[151] "須賀丸山"       "須賀沢"         "須川"           "杉ノ沢"         "清水"           "清水原野"
[157] "清蔵沢"         "清兵衛沢山"     "西鶉"           "西鶉原野"       "赤ハゲノ沢"     "赤坂沢"
[163] "赤沼"           "赤渕"           "赤渕ノ下岱"     "赤渕岱"         "川原"           "太郎澤"
[169] "大バケ"         "大丁上岱"       "大丁岱"         "大丁中ノ岱"     "大丁澤口"       "大野澤口"
[175] "鷹落"           "滝ノ岱"         "滝ノ沢"         "滝ノ沢岱"       "濁川"           "濁川下沢"
[181] "谷地ノ沢"       "谷地沢"         "竹岱"           "中ノ岱"         "中ノ沢"         "中館"
[187] "中松兵衛岱"     "中松兵衛沢"     "中岱"           "中田"           "中島"           "鳥居ノ沢"
[193] "堤ノ沢"         "泥川"           "天作沢"         "田ノ沢"         "土橋"           "土橋原野"
[199] "土場岱"         "東館"           "東館原野"       "湯ノ沢"         "当路"           "当路越佐内"
[205] "藤兵衛沢"       "峠下"           "徳二郎岱"       "椴流"           "内ノ沢"         "南部岱"
[211] "二股"           "畑内"           "八本木岱"       "桧木岱"         "桧木沢"         "桧木澤岱"
[217] "平蔵沢"         "平癒内"         "米兵衛岱"       "米揚"           "米揚岱"         "壁坂"
[223] "壁坂岱"         "片原道"         "幌内"           "幌内先"         "幌内沢"         "幌内中島"
[229] "又五郎沢"       "又五郎沢口"     "万九郎沢"       "万九郎沢畑内"   "万助谷沢"       "万助谷地"
[235] "万助谷地下"     "茂平岱"         "木間内"         "木挽岱"         "目名"           "目名ノ沢"
[241] "目名ヲサノ沢"   "目名尻"         "目名尻ミツノ沢" "目名尻ヲサノ沢" "目名川"         "目名川尻"
[247] "目名川沢口"     "目名川端"       "目名川渕"       "目名野"         "矢櫃"           "矢櫃口"
[253] "矢櫃沢"         "与兵衛岱"       "落合"           "落合渕"         "立待"           "立町"
[259] "留ノ堀"         "六込澤"         "六組澤"         "麓"             "鷲ノ巣"         "鷲堀"
[265] "鷲堀越"         "蕨岱"           "僥野"           "檜木沢"         "竈ノ沢"         "鶉"
[271] "鶉越"           "鶉原野"         "鶉村"

参考文献

更科源蔵 1966『アイヌ語地名解ー北海道地名の起源ー』北書房

永田方正 1891『北海道蝦夷語地名解北海道庁, 復刻版:草風館 1984

北海道 1969「津軽一統志巻第十(下)」『新北海道史』第7巻史料1, pp. 83-200



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忠魂碑と戦争

厚沢部小学校6年生を対象に、戦争と厚沢部との関わりについてお話をさせていただきました。

忠魂碑

厚沢部町本町の旧道沿いにある忠魂碑は大正8年に建立されました。題字は陸軍中将(当時)の田中義一です。田中は在郷軍人会の生みの親といわれる人物です。

厚沢部町本町の忠魂碑

授業では忠魂碑を実見し、忠魂碑に戦没者の氏名が刻まれていること、およそ160名の戦没者の名前が刻まれていることなどを確認しました。

厚沢部町戦没者マップ

一人一台配布されている端末を利用して、厚沢部町戦没者マップで氏名、戦没位置、戦没年月日を確認しました。戦争の推移にしたがって、戦没位置が変わることを確かめました。子どもたちからは「なぜ、このような遠くまで行って戦争をしなければならなかったのか」、「戦争に行きたくないとは言えないのか」、「そもそもどうやってこんな遠くまで行ったのだろう」という疑問が出されました。

昭和20年学校日誌

昭和20年俄虫国民学校学校日誌が残されています。日誌の中から戦争中の子どもたちの様子を記した部分をピックアップして紹介しました。長いのですが、以下に授業で使用した日誌を引用します。旧漢字や文語調の表現を改めた以外は原文のままです。

4月はイタヤカエデの樹液採取、5月からは農作業が生徒たちに課せられています。6月からは空襲も激しくなり、厚沢部村は空襲の被害は受けていないものの、警報がたびたび出され、授業が中断されている様子が伺えます。

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昭和20年4月4日 水曜 日直高石  晴  三度 道路除雪作業(高等科)

昭和20年4月8日 日曜 日直風間  曇  六度 来校者 村長 助役 藤島氏 道庁支庁の方二人     イタヤカエデ樹液採取指導のため来校する

昭和20年4月9日 月曜 日直佐藤  晴  摂氏十度 初等科5学年以上終日イタヤ液採取 戦果二斗八合一斗三升 女子職員21時まで液の煮つめ方(青年団員三日間堆肥詰込)

昭和20年4月10日 火曜 日直佐藤  晴  摂氏十二度 樹が少ないのに各地に突撃を試し、相当の成績をあげていることはまことに職員生徒一丸となったおかげである 初等科等5年生以上イタヤ樹液取。戦果九斗九升五合 女子職員液煮つめ(学校宿泊)四日目

昭和20年4月12日 木曜 日直佐藤  晴  摂氏十一度 初五以上イタヤ蜜採取 戦果五斗六升 女子職員右煮つめ方 来校者 藤島氏 蜜採取督励指導のため 支庁長よりイタヤ蜜に関する官報電報あり

昭和20年4月13日 金曜 日直○○  晴  摂氏八度 初等科5年生以上イタヤ液採取 一斗五升 個人として五升五合 学校長軍用馬指定購買に関する打合会(家畜診療所にて)出席 来校者 佐藤 加藤校長 藤島氏(イタヤ蜜容器持参)

昭和20年4月14日 土曜 日直○○  晴  摂氏九度 初等科5年生以上はイタヤ液採取(一斗三升九合)

昭和20年4月15日 日曜 日直斎藤  晴  摂氏十度 イタヤ樹液個人として(一斗六升五合五勺)

昭和20年4月16日 月曜 日直風間  曇後晴  C十一度 校庭耕起 イタヤ樹液(個人)九升八合 容器ハンダづけ藤島氏

昭和20年4月17日 火曜 日直風間  快晴  C十度 初等科5年生以上はイタヤカエデ樹液採取 戦果二斗八升二合二勺 個人二升四合

昭和20年4月18日 水曜 日直風間  快晴  C十五度 イタヤカエデ樹液個人四升九合

昭和20年4月19日 木曜 日直風間  雨後曇  C十一度 イタヤカエデ樹液個人三升五合 学校長生産増強委員会に出席 アメ到着する(イタヤカエデ樹液採取のごほうび)

昭和20年4月26日 木曜 日直金谷  晴  十五度 高等科上俄虫へ土地改良出動 高等科2年生女子赤沼実習地 高等科午后ベニヤ工場より薪運搬す 須田先生に現役召集が来る 赤沼工藤氏宅火災応援に行く

昭和20年4月29日 日曜 日直野田  晴  十二度 天長節儀式 来賓町長外有志数名 須田先生はじめ入営兵見送り イタヤ樹液発送

昭和20年5月2日 水曜 日直野田  晴  九度 高等科上俄虫に土地改良

昭和20年5月4日 金曜 日直野田  雨後曇  十二度 高等科上俄虫に土地改良(雨の為午前中で中止)

昭和20年5月5日 土曜 日直櫻谷  晴  十三度 午前8時高石訓導見送り 午後1時出征兵見送り 高等科午後ベニヤ工場より薪運搬入

昭和20年5月18日 金曜 日直斎藤  雨  C一〇度 映画見学 初等科1年生から高等科2年生まで(○○会)マンガ 空の軍神 4時半―6時

昭和20年5月20日 日曜 日直  晴  一七度(后五時) 英霊出迎(正午) 三柱(内一柱 土橋 鹿能嘉布氏 他二柱は○○出身者) 昭和20年5月29日 火曜 日直工藤  曇  十三度 アッツ島玉砕記念日 國民義勇隊結成式午後1時より

昭和20年6月5日 火曜 日直佐藤  晴  十三度 2時間目、3時間目は空襲の退避訓練 防空資材の検閲

昭和20年6月6日 水曜 日直佐藤  晴  十四度 3時間目から5時間目まで空襲警報による待避訓練 高等科防火訓練

昭和20年6月17日 日曜 日直斎藤  曇  十三度 畑の草取(午前中)初四年以上

昭和20年6月26日 火曜 日直佐藤  曇  十九度 警戒警報発令およそ1時間後解除(3時から4時)

昭和20年6月27日 水曜 日直風間  快晴  二十五度 空襲警報発令およそ1時間半後解除(11時半から1時)

昭和20年6月29日 金曜 日直佐藤  晴  C二〇度 警戒警報  12時15分 空襲警報  12時20分頃 空襲警報解除 1時50分 警戒警報解除 3時45分

昭和20年6月30日 土曜 日直風間  快晴  二十四度 警戒警報直ちに空襲警報発令 約1時間半後解除(正午頃より)

昭和20年7月2日 月曜 日直金谷  晴  二十二度 試作場除草 初等科五年以上出勤

昭和20年7月3日 火曜 日直金谷  曇後晴  十九度 応召兵見送り(午前九時) 試作場除草 初等科5年生以上出動

昭和20年7月4日 水曜 日直金谷  曇  二十二度 空襲警報発令(午前3時頃) 実習地除草(高等科)

昭和20年7月5日 木曜 日直金谷  曇 二十三度 俄虫国民学校学徒隊結成式 海軍諸学校練習生予備検査 軍用馬飼育について支庁、蛇沼氏の講演あり(午後3時頃より)

昭和20年7月9日 月曜 日直○○  晴  二〇度 援農(高等科 初等科5年生、6年生)

昭和20年7月10日 火曜 日直野田  晴  一八度 援農(高等科 初等科5年生、6年生) 郷軍幹部会(1時) 國民体力法検査(1時)

昭和20年7月14日 土曜 日直野田 午前5時15分空襲警報発令 艦載機のべ320機、函館、室蘭、釧路、帯広を空襲する 各地に軽微の損害 正午頃一旦空襲警報解除 午後に再び発令され、夕方に解除された

昭和20年7月15日 日曜 日直櫻谷  晴  二十二度 午前5時5分警戒警報発令 午前5時30分空襲警報発令 郷軍点呼演習 海軍志願者江差へ出発 畳教諭引率 5時半警報解除 敵機正午頃来飛

昭和20年7月16日 月曜 日直櫻谷  晴  十九度 高等科畑の除草作業 午前10時15分空襲警報発令 空襲警報発令のため、授業は3時間目から中止 速かに帰宅 海軍志願徴募調査(江差) 午後1時半空襲警報解除 同2時警戒警報解除

昭和20年7月17日 火曜 日直櫻谷  晴  十九度 高等科畑へ除草作業 郷軍点呼演習 海軍志願者江差より帰る

昭和20年7月24日 火曜 日直  晴  C二十三度 警戒警報発令(12時) 警戒警報解除(1時半頃) 実習地作業(高等科)

昭和20年7月25日 水曜 日直  晴  二十三度 畑の除草(高等科) 警戒警報発令(10時頃) 警戒警報解除(12時頃)

昭和20年7月26日 木曜 日直  晴  C二六度 畑の除草

昭和20年7月27日 金曜 日直  晴  C二三度 イタドリの採集 全生徒出動 初等科四時限目より

昭和20年7月29日 日曜 日直  晴  十五度 12時警戒警報発令 警戒発令前敵機上空にあらわれる(高度高し)

昭和20年7月30日 月曜 日直九千房  晴  C二四度五 ベニヤ心材整理(校庭のもの) イタドリ採集 全生徒出動(初等科4時間目から) 午後1時頃より疎開(戦災)者懇談会 工藤教頭滑空訓練の見学引率のため出発

昭和20年7月31日 火曜 日直佐藤  晴  C二十五度 ベニヤ心材整理 畑の除草 高等科 乾燥イタドリ整理 初等科3年生から初等科6年生まで

昭和20年8月2日 木曜 日直金谷  晴  C二十八度 試作場奉仕(5年以上) イタドリ採集(9時40分高等科男子と初等科4年生以下)

昭和20年8月3日 金曜 日直晴C二九度 学校実習地(高等科女子)ソバ蒔と除草 ベニヤ工場へ心材整理及運搬(高等科男子) イタドリ整理(初等科3年生以下) 学徒義勇隊属出

昭和20年8月4日 土曜 日直野田  晴  二十九度 実習地(高等科女子) 畑作業(初等科5年生以上) イタドリ(高等科男子、初等科4年生以上、3時間目から) 学校長義勇隊会議(江差函館市中訓練 村葬準備(午後)

昭和20年8月9日 木曜 日直佐藤  雨時々晴  C二十四度 午前6時30分空襲警報発令 波状的に来襲 特警隊訓練

昭和20年8月10日 金曜 日直風間  晴  C二十四度 午前4時50分警戒警報発令 午後5時40分解除 東北(青森地方)波状空襲 子馬一匹死亡

昭和20年8月11日 土曜 日直金谷  晴  C二十二度 午前5時40分警戒警報発令 午前8時20分頃解除された 午前9時児童登校する 支庁の畑へ初等科4年生から6年生、高等科女子出動 子馬一匹死亡

昭和20年8月14日 火曜 日直野田  曇  二〇度 2時間授業 下校9時20分 警戒警報発令30分後解除 海泳訓練

昭和20年8月15日 水曜 日直櫻谷 家庭農業のため臨時休業 函館中集合訓練 ポツダム会談無条件受託が放送される 来校者 校長先生 工藤先生外      諸先生 ラヂオ聴取者

昭和20年8月16日 木曜 日直工藤  晴  八十度 忠魂祭 午前9時 全児童参拝

昭和20年8月18日 土曜 日直佐藤  小雨  C二十四度 書類焼却

昭和20年8月29日 水曜 日直九千房  曇  二十六度 3時間目からイタドリ荷造り並購買(36俵)

昭和20年9月19日 水曜 日直金谷  晴  C二十度 神明社例祭 午前8時 全校児童参拝 石山訓導 高石訓導 軍籍解除帰校せり

昭和20年9月20日 木曜 日直金谷  晴  C二十二度 高等科3時間目からベニヤ心材運搬

昭和20年9月21日 金曜 日直金谷  晴  C二十二度 上俄虫神社例祭 授業二時限 高等科実習地除草

昭和20年9月22日 土曜 日直金谷  晴  C二十三度 赤沼神社例祭 授業3時間目まで

昭和20年9月26日 水曜 日直野田  晴  C十九度 村葬準備(午後) 英霊到着(5時出迎)

昭和20年9月27日 木曜 日直野田  晴  C十八度 村葬(10時) 5年以上参列 4年以下臨時休業 来校者 村葬参列者多数

昭和20年9月28日 金曜 日直野田  晴  C二十度 ジャガイモ(6年以上)

昭和20年9月29日 土曜 日直野田  晴  C二〇度 ジャガイモ掘り(2時間目より高等科)

昭和20年10月2日 火曜 日直櫻谷  曇  C十六度 高等科生徒はジャガイモ掘り作業

昭和20年10月29日 月曜 日直風間  曇  13℃ 慰霊祭式場準備 関係者多数来校 赤沼実習地作業(高等科)

昭和20年10月30日 火曜 日直工藤  晴  18℃ 厚澤部村合同慰霊祭 遺家族多数参列 初等科6年以上慰霊祭に参列

厚沢部町最古の草分け伝承〜上俄虫〜

上俄虫の草分け伝承

明治19年北海道庁の青江秀が全道巡検を行った際、事前に各戸長役場に諮問した項目に対する回答書です。有力者、将来希望する事業、地誌などの諮問項目ごとにまとめられている。俄虫村については次の回答があります。

俄虫村

該村は天正年間の頃徳兵エなるもの陸奥国福島より移住檜山稼ぎを業とし傍ら農業を営む爾来続々移住現今人戸四拾三戸あり

ここでは、天正年間(1573〜1592)に陸奥国福島から「徳兵エ」が入植し、ヒノキアスナロ伐採に従事するかたわら農業を営んでいたことが記されています。

青江理事官『諮問回答書』(俄虫村抜粋)

現在でも上里には「徳兵衛」を襲名する家があり、「厚沢部で最も古い家」とされています。

松浦武四郎『廻浦日記』にみる俄虫村

松浦武四郎による安政3年(1855)の蝦夷地踏査記録である『廻浦日記』では俄虫村について次のような記載があります。

俄虫村

此処人家四十軒斗処々に散乱したり。畑多く又桑の木多し。名主麻上下を着して迎に出る(八十四才)。然るに此処江刺より皆合子を運び有。先時を問ふに早七つ頃、笹山にて昼飯せしと云うもののわづか鶏卵の如きもの二粒にし有れば、只目を□め来りし処、取りあえず存分に喰したる。此処へ馬七八疋を繋たり。扨是より早く是に乗りて出立するに、五六丁上に上がりて、(後略)

人家は40軒ほどで、散在していると記します。「人家四十軒」というのは諮問回答書に極めて近い数字です。畑が多く、桑の木も多く見られたようです。

名主が上下を着用して出迎えたと記載があります。厚沢部川流域の村々で武四郎一行を村役が出迎えたのは目名村と俄虫村のみです。両村が当時の拠点的な集落として江差方面から情報が入っていたことを示すエピソードと思われます。

松浦武四郎『再航蝦夷日誌』

弘化3年(1846)の蝦夷地探検に記録では次のような記録があります。

俄虫村

人家四十弐、三軒。ここかしこに落々と建たり。稼方前にしるす如し。炭焼、檜山稼のもの多し。鮭場出張一か所有。故に此川筋鮭漁の節は流し木を禁ず

戸数の記載は諮問回答書、廻浦日記とほぼ共通して42〜3軒で点在している様子として描写されます。炭焼きとヒノキアスナロ伐採に従事する者が多いとします。

また、鮭場が一か所あり、そのため鮭漁の時期には流し木、つまり木材の流送が禁止されたということです。

俄虫村の旧字名

主な地名として下流から「万助谷地」、「上俄虫」、「与兵衛岱(米兵衛岱)」、「意養(イヤシナイ)」があります。

上俄虫旧地名

「万助谷地」は現在の太鼓山スキー場下の水田地帯です。「谷地」というだけあって、湿潤な土地なのでしょう。

旧字万助谷地

「上俄虫」は集落の中心で、俄虫村の住民の大半はここに居住しています。

旧字上俄虫

与兵衛岱(米兵衛岱)」、「意養」は安野呂川支流の意養川流域に広がる地名です。「意養=イヤシナイ」は地元では「ヤシナイ」「ヤシネ」のように発音します。アイヌ語地名であることは間違いないのですが「イヤシナイ」の読みで考えると解釈を誤りそうです。

旧字意養

旧字与兵衛岱

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旧地名が多く残る上の山

上の山は厚沢部町市街地から厚沢部川を1kmほど遡ったところに位置し、厚沢部川の右岸と左岸に広がる字名です。 山が迫り、居住スペースが少ないため、大正9年発行の5万分1地形図でも建物はほとんどみえません。

大正9年発行5万分1地形図

字上の山の旧字名

居住スペースは少ないものの、地名は多く残されています。 主な地名は次のとおりです。

  • アジヤ沢(厚谷沢)
  • ザルイシ
  • ツナ沢
  • ヨシボリ
  • 押出
  • 女ノ越(めのこし)
  • 上の山
  • 新渕
  • 滝ノ沢
  • 土橋原野
  • 壁坂
  • 立待

字上の山の旧字名

武四郎『廻浦日記』にみる上の山旧地名

松浦武四郎の『廻浦日記』(松浦武四郎1978)には厚沢部川と安野呂川の合流点から厚沢部川上流を記述した描写があります。

扨此処から本川すじの奥を見るに、両山相蹙て其沢目みえがたし。凡十丁も此処より奥に入る時は左りの方に小沢有。是をウツラと云う。人家十七八軒も有也。向て右の方金堀穴、メノコシ等云字有と。 (中略) 又右の方、アジマノサワ、並てタチマチ、此処左右二股に成上る。

前節でみた「アジヤ沢」=「アジマノサワ」、「女ノ越」=「メノコシ」、「立待」=「タチマチ」を武四郎の日記に見ることができます。

『鶉山道図鑑』に描かれる上の山

山が両側に迫る上の山は、明治19年北海道庁が行った鶉山道開削工事でも難所の一つとなりました。

『鶉山道図鑑』(函館市中央図書館所蔵)には岩山が迫る上の山の難所がよく描かれています。「第三拾七号甲 檜山郡俄虫村字焼山旧道及び岩面眺望之景」は現在の由利工業プラント付近から俄虫市街地方面の眺望を描いています。これより上流では鶉川の作り出した平坦な段丘面が広がりますが、ここから下流の厚沢部川と安野呂川の合流点付近までは切り立った崖が続きます。鶉山道工事でも屈指の難所と言えます。絵師の石田長介は、そのような難所の開始地点としてこの場所を記録にとどめたのでしょう。

第三拾七号甲 檜山郡俄虫村字焼山旧道及び岩面眺望之景

「第三拾七号乙 俄虫村字焼山爆烈薬燦テ旧道及び岩面眺望之景」では爆薬を利用した山道開削の様子が描かれます。爆薬で岩盤を掘り崩し、その後をつるはしを持った人々が道路を造成しています。

第三拾七号乙 俄虫村字焼山爆烈薬燦テ旧道及び岩面眺望之景

現在の国道227号も明治19年に掘削された発破道路を踏襲しています。昭和48年撮影の写真にも発破で切り崩した垂直に近い崖面をみることができます。

昭和48年9月5日撮影の「第三拾七号乙」発破道路近景

(昭和48年9月5日撮影の「第三拾七号乙」発破道路近景)

『鶉山道図鑑』描画位置図

上の山旧字名の地名解釈

上の山の旧字名にはアイヌ語地名と思われる地名がいくつかありますので、地名解釈を試みます。なお、アイヌ語地名解釈は、転訛を逆追いして元のアイヌ語を突き止める作業、地名の移動や拡縮の有無、それらを踏まえた現地踏査によって妥当性を判断することが基本となります。以下はあくまでも筆者の「思いつき」レベルの考察であることをお断りしておきます。

ザルイシ

厚沢部川右岸の沢筋にある旧字名です。上の山の急な崖面が少し途切れて、やや平坦になったところです。

旧字名「ザルイシ」の位置

類似する道内のアイヌ語地名として次のような地名が考えられます。

  • 更岸(さらきし)
  • 去来牛(さるきうし)

更岸は天塩町の地名、釧路町尻羽岬西にある地名です。更岸について、山田秀三(山田1984:pp.135-136)は「sar-kesh 葭原の・末」と解しています。また、去来牛は東蝦夷日誌で「サリキウシ。芦・萩有る沢と云義」とされ、山田秀三はこれを「sarki-ushi-i 芦・群生する・処、沢」としました。

いずれにせよ、アシやヨシ(葭)が茂る場所の意です。

アジヤ澤

「アジヤ澤」、「厚谷澤」は同一起源の地名と考えられます。

アイヌ語地名に使用される「アッ」は「ニレ」を意味するものが多く確認できます。町名、厚沢部の語源についても永田方正の「ハチヤム ペッ 桜鳥川」(永田1891:p149)だけでなく、「at-sat-pu オヒョウを乾す川」(更科1966:p18)の解釈が考えられますし、厚田、厚真、厚岸なども「アッ」地名の可能性が考えられています。「アジヤ」、「厚谷」もニレに関連する「アッ」地名の可能性が考えられます。

ツナ澤

礼文島香深の旧名トンナイ(to-un-nai 沼・がある・川)の類似地名かもしれません。トンナイ→ツナの転訛と解するのは強引かとも思います。なお、上流には沼を意味するトー地名の当路があります。

女ノ越

メノコシはシンプルに考えればmenoko-uishi(女・いる処)などですが、意味が通りません。女をushiと表現する事例もないでしょう。北海道のアイヌ語地名 (478) 「小砂子・メノコシ岬」 で紹介されているようなmenoko-wen-sir(女・悪い・場所)、すなわち「女では通るのが難しいような難所」ぐらいの意味なのかもしれません。

土橋原野

約5km下流にある大字土橋村と同名の地名がなぜか登場します。地名の移動が起きたのか、あるいは偶然土橋地名が2箇所に生じたのかわかりません。なお、富栄の旧字名「土橋」は現在の富栄集落の中心付近ではなく、字美和との境界付近に位置しています。

字富栄と字上の山の2箇所に現れる「土橋」

まとめ

上の山は現在は住民がほぼゼロの集落です。近年になって人口減少したのではなく、近代を通して定住的な集落が形成されてことはありませんでした。それは近世も同様だったと考えられます。

一方、興味深い地名や鶉山道の難所だったことなど、エピソードの多い地名です。厚沢部川下流と上流をつなぐ交通の要衝であったことが多くの地名を生み出した要因となっているのかもしれません。

参考文献

更科源蔵 1891『アイヌ語地名解ー北海道地名の起源ー』北書房

永田方正 1891『北海道蝦夷語地名解』北海道連合教育会

松浦武四郎 1978『<安政三年>竹四郎廻浦日記』北海道出版企画センター



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SAGA GISを活用した水文環境の分析〜史跡館城跡の事例〜

北海道厚沢部町では史跡館城跡の整備計画作成を進めています。整備計画では遺構だけではなく、植生や社会的な環境、給排水の環境も調査し、整備のアセスメントを行うことが求められています。特に給排水の構造を無視した史跡整備を行うと、遺構の保存や活用に悪影響を与えるだけではなく、周辺の住民や農業者に多大な損害を与える可能性があります。そのため、しっかりとした調査に基づいた設計が必要です。

厚沢部町教育委員会は2021年から2022年にかけて業務委託により水文調査を行い、史跡内の水文環境の把握を行いました。調査の結果、史跡内への給水と排水の経路や水量について把握されたようですが、史跡南側にある通称「丸山」の北西斜面を集水域とする水の流れは判然としないようです。そこで、GISを用いた水文環境分析を行い、私なりに状況を整理してみました。

館城の給排水経路

館城で明瞭な給排水経路は史跡南側の丘陵から堀・土塁の南東隅に流れ込む「給水A」、史跡が東側の林地から流れ込む「給水B」、町道側溝を通じて東側から流れ込む「給水C」があります。給水Aは排水Cから史跡西側へ排出され、また給水Bに合流して排水Bから排出されるようです。給水Cは史跡内の自然の流路を経由して排水Aへと至ります。

館城の給排水経路模式図

Catchment Slope

Catchment Slopeは雨水の流れやすさを表す指標で、流下方向の傾斜角度で表示されます。史跡南側の丘陵からの排水は、5系統が確認できました。

系統1は明瞭な沢状地形で常時滞水していますが、系統2〜5は見た目には沢状ではありません。ただし系統4は流末が沢状になっています。

館城南側丘陵のCatchment Slope

参考までに町道北側のCatchment Slopeも示します。大半の雨水は水路を経由して排水Aから与惣吉沢へ流出すると考えられますが、もともと沢筋があった系統6や南西部の「緩やかな地表流」の部分には地表流が発生する可能性があります。

町道北側のCatchment Slope

Catchment Area

水文解析で重要なもう一つの指標がCatchment Areaです。これは、任意の地点の集水面積を示す指標です。Catchment Slopeは水の流れを示す指標ですが、Catchment Areaは水の流れがなく湿地化した領域も抽出することができます。Catchment AreaとCatchment Slopeの関係は次のとおりです。

  • Catchment Slope低, Catchment Area低 = 尾根や丘陵上の平坦地。もっとも水はけが良い。
  • Catchment Slope低,Catchment Area高 = 水が流れず滞留する。低湿地。
  • Catchment Slope高,Catchment Area低 = 集水しない平坦な斜面。水はけ良い。
  • Catchment Slope高,Catchment Area高 = 水が流れ集水する。いわゆる河川。

Catchment SlopeとCatchment Areaを見比べることは水文環境を理解する上で役立ちます。

館城内のCatchment Area

Wetness Index

Catchment SlopeとCatchment Areaをベースに総合的な湿潤度合いを示すのがWetness Indexです。「湿潤指標」といったところでしょうか。土地の湿潤度合いを容易に見て取ることができます。

史跡館城内のWetness Index

まとめ

フィールドで水流を観測する場合、何らかの方法で水を集めその量を計ることとなります。しかし、史跡のような広大な領域では地下への浸透や地表流による拡散的な水流も無視できない水量と考えられます。そうした水流を念頭に置かず、たとえば潜在的な水流を断ち切るような園路の設置や盛土などの行為は意図しない水流の変更を引き起こします。それは、史跡の保存と活用に予期しない悪影響を与え、場合によっては史跡外へも悪影響を与えるリスクを抱えています。

今回の水文環境の分析はフリー・オープンソースソフトウェアのSAGA GISを使用しました。あまり難しいことを考えなくても、出力値の概念さえ理解できれば無料で手軽に分析できるため、水文環境の基礎的な理解を深める上で有用と感じました。

大谷農場と寺田省帰〜木間内と農場開放〜

厚沢部町字木間内はアイヌ語の「キムン・オ・ナイ」(山奥に・ある・川)が語源と考えられます。現在の社の山川がかつては「キマナイ」と呼ばれており、これが木間内の語源と考えられます。この経緯は字名に昇格した「社の山」地名で詳述しています。

鶉川の作り出した地形

鶉川は河岸段丘が発達しており3段の段丘堆積物があるとされています(工業技術院地質調査所1975: p46)。木間内周辺では右岸にt2段丘堆積物が、左岸にt3・t2堆積物が分布します。地形図では「字社の山」との境界にt3とt2の境界段丘崖が明瞭に確認できます。

木間内周辺地形図

木間内周辺地質図(地質調査所1975)

木間内と大谷農場

木間内は本願寺大谷派が農場を開いたことで知られる。須藤隆仙によると函館監獄の教誨師和田義英が年少の感化院生を僻地開墾に従事させるため、鶉村木間内に30万坪(約100ha)の土地貸付を受け、明治23年から北海道慈善会として開墾事業に着手したといいます。慈善会の活動は地元との関係もふるわずうまくいかなかったようで、明治26年には慈善会を解散し、大谷農場として運営が続けられたようです(須藤1986)。

明治二十 一年函館監獄署の大谷派教誨師和田義英は、典獄とはかって自宅を院舎に私費で免囚年少者の感化院をつくった。初め有志の寄付で運営し、院生を小細工品や製網に従事させたが、資金が困難になり、逃亡者なども出たので僻地開墾に転向することを考え 、鶉村(檜山郡厚沢部町)に三〇万坪の貸付をうけ、同二十三年五人の院生を移し北海道慈善会(大谷派営) とした。だが村人が院生をきらうなどの難事にあい、同二十六年解散、そのご「大谷農場」として純然たる小作農場にしたが、大谷派は明治末年売却した。(須藤1986)

下の写真は大谷農場時代の木間内の様子です。手前に鶉川がながれ、画面右手が下流と思われます。奥の建物は北大図書館のキャプションによると奥の建物は「事務所及び倉庫」です。手前のほ場では田植えが行われています。

鶉村大谷農場事務所付近の景(北海道大学附属図書館所蔵)

寺田農場と木間内

大谷農場の経営は苦しかったようで、明治35年にはさらに56万7千坪の未開地貸し下げを受け、これに伴い移住者の増加があり一時は収穫高も倍増したとされますが、大正2年には冷害のため大凶作となったようです(寺田農場開放記念誌実行委員会1983: p8)。不振が続いた大谷農場は大正8年に小樽の寺田省帰に売却され「寺田農場」となりました(前掲)。

寺田農場では大正11年から造田事業に着手し、昭和2年には寺田農場の小作農が中心となり木間内灌漑組合を結成し、98町歩の造田に成功しました(寺田農場開放記念誌実行委員会1983: p9)。

寺田農場の農場開放

寺田農場は昭和9年に小作農49名に対して約500haに及ぶ農地の払い下げを行いました。

ことの発端は、木間内での小学校建設に伴う用地の取得にありました。当時の木間内の土地はほぼ全て寺田農場の所有地であり、農民が自由になる土地がなかったことから、自作農創設の動きが高まったようです。東崎政男(後の初代公選村長)や農場管理人の村屋久蔵が寺田省帰に働きかけ、自作農創設の承諾を寺田から得ることに成功しました。

また、小学校建設用地は寺田から町に寄付されることとなり、約5haの土地が学校用地として町に寄贈されました。これは昭和13年に設置された木間内尋常小学校です。現在でも旧木間内小学校の敷地の一角に「開放記念碑」が置かれています。

開放記念碑

引用文献

工業技術院地質調査所 1975『館地域の地質 地域地質研究報告5万分の1図幅』, p46 須藤隆仙 1986「北海道における仏教福祉の歴史」『仏教福祉』12, pp. 70-92 寺田農場開放記念誌実行委員会編 1983『寺田農場開放50周年記念誌』

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古くて新しいまち「新町」

厚沢部町新町は、役場、消防、図書館・体育館、小中学校がなどの公共施設が密集する厚沢部町の中心地です。一方、旧字名は赤沼、下俄虫、女ノ越、丸山の4つしかありません。しかも大半は下俄虫です。新町はほとんどすべての領域が「下俄虫」となる地名的変化にとぼしい地域です。

昭和23年米軍撮影航空写真と新町旧字名

新町の地名的変化のとぼしさは、安野呂川対岸の赤沼集落の旧字名と比較するとよくわかります。

野呂川対岸の赤沼の旧字名

新町の中の赤沼

さて、新町の北側、厚沢部中学校のある一角は、対岸にあるはずの「赤沼」地名があります。隣接しているとはいえ、川を挟んで地名を共有することはなかなか珍しいのですが、これは安野呂川の旧河道と河川改修の影響によるものであることが、前出の昭和23年米軍撮影航空写真や大正9年地理院の地形図からわかります。

大正9年地形図と新町旧字名

もともと、安野呂川の右岸に含まれていた地域が河川改修によって左岸に取り残されてしまったことが「新町の中の赤沼」を生んだ原因だとわかります。

檜山農事試作場

新町を語る上で欠かせないのは明治43年に設置された檜山農事試作場です。檜山農事試作場は、現在の厚沢部町新町のうち、厚沢部町役場からJA新函館厚沢部支店を含む範囲です。檜山農事試作場については過去に紹介したことがあります(厚沢部市街地にある檜山農事試作場の痕跡 檜山農事試作場とあっさぶ市街地の成り立ち

また、檜山農事試作場の変遷は次のとおりです1

撮影年は不明ですが、檜山農事試作場の写真があります[^1]。撮影方向は現在の消防署のあたりから北西側を撮影したものと思います。

「檜山農事試作場」全景

この試作場で大正14年から昭和2年にかけて馬鈴薯の試験が行われ、昭和3年に檜山の奨励品種として「メークヰン」が示されました2

優良品種の奨励に関する件(『協議要録 自大正十五年 至昭和十年』, p43)

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  1. 北農会 1971「道南地域における元農事試作場の環境と業態<座談会記事>」『北濃』, 財団法人北農会, pp. 33-48
  2. 北海道農業試験場 1935『協議要録 自大正十五年 至昭和十年』, p43